STATEMENT
私は、常に〈全体的な生と世界のあり方〉を考え、作品それぞれの成立の状況に相応しい作品づくりをめざしています。
〈全体的〉とは、様々な次元や領域やスケールでの全体性であり、またそれらが互いに混ざり合い重なり合っている中で、いかに考え、形にしてゆくかの絶え間ない実践を続けています。
私は、いわゆるジャンルを横断した活動をしておりますが、中心は〈映画/映像〉と〈ライブ/パフォーマンス〉の領域です。この2つの領域は、現代においてもっとも基本的な領域と捉えています。しかしながら、両者を全体的に捉える思考と実践は、社会的にあまりにもまだ成熟しておらず、そのことによってもはやそれぞれの領域の欠落が歴然としてきていると思うのです。それとともに、特にここ数年、様々な形で出現する出来事と、それらに翻弄されてゆく私たちと社会の姿が、その欠落に象徴されていると見做しています。
そもそも、〈映画/映像〉におけるカメラでの1ショットの撮影は、いわゆる「現実」のライブ映像であり、20世紀は、そのショットを集積、積み重ねて文化としてきました。一方の〈ライブ/パフォーマンス〉は、根本的にはライブのままでありながら、〈映画/映像〉によって撮影/記録/再生/記憶されつづけてきました。その両者の関係は、構造的な領域をはるかに超えて、人間個人と社会のシステム全体の虚構と現実に複雑に絡み合い、その中での人間の行動が結果として世界環境そのものを不自然にしています。特に、個人と社会にまたがる言葉の機能不全と、個人の認識能力の全体性の欠如が、様々な障害を引き起こす結果となっています。しかし、欠落と捉えるよりもその現実を認め、未来への可能性を探り、光をささやかにでも見出してゆくことこそが重要だと思います。
今回の新作《meta dramatic 劇的》は、長年にわたる〈映画/映像〉と〈ライブ/パフォーマンス〉の実践の凝縮として、世に問うことのできる作品になると確信しています!
ABOUT THE WORK
《meta dramatic 劇的》は、7分00秒のユニット4つで厳密に構築される28分の映像作品である。〈ライヴ〉の虚構/現実、〈言葉〉の虚構/現実、このふたつが、今の社会と個人の虚構/現実と混ざり合い、重なり合う。その危険と魅力の全体性を〈劇的〉にすることで、この作品は、有機的存在としての映像作品になるだろう。
〈メイン〉=シテ
大きめのスクリーンに映像作品《meta dramatic 劇的》が上映されている。天井から吊られた大きめのスクリーンは、〈ライヴ〉の主役である身体としての映像が映し出され、祝祭/儀式としての衣装のイメージで、黒いファーのようなもので縁取りされている。
〈サブエリア〉=ワキ
スクリーンと反対側の壁際に、畳と人工芝が敷かれた細長いエリアがあり、会期中のある日時に、パフォーマーがスクリーンと観客を見守るように、密やかな儀式として、静かに気を送るダンスをしたり、小さな音や声を発したりする。照明は当たっておらず、観客は、ライヴが行われている気配を背後に感じながらスクリーンの映像を見つめる。