アーティストと日記の縁は深い。私的なものにせよ公刊されたものにせよ、これまで多くのアーティストたちが日記を書き記してきた。野見山暁治の「アトリエ日記」[*1]や山口晃の「すゞしろ日記」[*2]はいまも高い人気を集めているし、奈良美智の『NARA LIFE』[*3]も、ブログとTwitterで書かれた文章をまとめたものであるとはいえ、公開を前提とした今日的な日記として考えられるだろう。現在だけではない。村山槐多[*4]や関根正二[*5]、前田寛治[*6]、荻原守衛[*7]、竹久夢二[*8]といった日本近代の画家たちも、みな熱心に日記を書き残している。
だが、今も昔も、それらの大半は文字どおりの日記であり、私生活を披瀝したり芸術思想を開陳したりすることはあっても、絵画のような美術作品とは明確に一線を画した別種の表現として扱われがちである。純粋芸術としての絵画と限界芸術としての日記を峻別しているわけだ。展覧会でしばしば目にする日記にしても、それらは「作品」というより、むしろその鑑賞と理解を補うための副次的な「資料」として展示されていることが多い。
とはいえ、むろんすべてのアーティストがそのように作品と日記を切り分けているわけではない。それほど多くはないとはいえ、日記を書くことが作品になっている、いや、より正確にいえば、絵画作品そのものが日記になっているようなアーティストがたしかに存在する。1968年以来《Daily(日記)》シリーズを制作している野田哲也はその代表格であるし、小出楢重のように絵画と日記を掛けあわせた「絵日記」を描いた画家もいる[*9]。身の回りの日常的なモチーフを繰り返し描いたマティスの絵を「日記的絵画」[*10]として見ることもできなくはないだろう。

日記=作品の第一人者といえば、河原温を挙げなければなるまい。《Today》シリーズは、「日付絵画」という呼称が定着しているように、河原の代表作であると同時に、コンセプチュアル・アートの歴史に残る傑作である。キャンバスに描かれているのは、制作された国の言語で記された「月」とアラビア数字で記された「日」と「年」のみ。白抜きにされた文字と数字が、単色で色付けされた背景に浮かび上がる画面構成は、じつにシンプルだ。ここには、通常日記に求められる具体性は微塵も見られない。にもかかわらず、それが日記的な絵画であるといえるのは、この作品がきわめて厳格な自己規律によって継続されているからだ。
《日付絵画》は、キャンバスに描かれた日のうちに制作をはじめ、その日のうちに制作を完了しなければならない。したがって、制作時間が午前0時を一秒でも超えた場合、その作品は破棄されてしまうという。《日付絵画》が文字どおり毎日制作されているわけではなく、あくまでも断続的に継続しているという事実は、それが以上のような明快なルールを遵守していることの現われにほかならない[*11]。
文章であろうと映像であろうと、主体にとっての日々の出来事やその感想、思索について具体的かつ継続的に表現されたもの。さしあたり日記をこのように定義するとすれば、河原の《日付絵画》は日記の具体性を放棄する代わりに、継続性を重視していると言える。その極端な偏りこそ、《日付絵画》を私たち凡人が書く日記とは異なる、類まれな作品に仕立て上げる特質なのだろう[*12]。
だが、いかに継続性に重心を置くといっても、具体性が根こそぎ欠落していれば、それを日記としては考えにくいこともまた事実である。むろん、見る者が《日付絵画》の厳格なルールを知り得ている場合、その数字と文字の先にこの絵画を制作する河原自身の姿を重ねて見ることはできなくはない。けれども、いくら想像力をたくましく働かせようとも、そこから河原自身の経験の厚みや思考の深さを見通すことは難しい。つまり、《日付絵画》は形式的には日記との相似性が高いとはいえ、内容的にはむしろ日記からかけ離れているのである。
ところが、河原温の《日付絵画》がこれほどまでに高く評価されている要因は、文字と数字、そして二色の色彩だけで構成された、ほかならぬその抽象性にある。なぜなら、このきわめて純度の高い抽象性は、具体的な内容を一切伝達しない代わりに、だからこそ「逆にあらゆることを含んでいる」[*13]とも考えられるからだ。事実、河原の他の作品──たとえば絵はがきに何時何分に起床したかだけを記して特定の人物に送付する《I GOT UP》や、同じく特定の人物に電報でみずからの生存を伝える《I AM STILL ALIVE》など──を考え合わせると、河原の作品に内蔵されているのは、経験や思考といった内容ではなく、むしろそれらの基底である主体、すなわち河原自身の実在といえるのではないだろうか。河原が日々書き記しているのは、私生活の些事といった現象や高邁な芸術論といった観念ではなく、それ自身でかたちをとることのない、しかし河原温を形成するうえでは必要不可欠な、実存そのものなのだ。

河原温と対照的な関係にあるのが、吉村芳生である。河原の作品を構成しているのが抽象性と断続性だとすれば、吉村の作品は具象性と連続性に分解できるからだ。
吉村の《365日の自画像》は、一年間の毎日、一日も欠かさず、ただひたすら自分の顔写真を撮影し続け、それらから自画像を鉛筆で描き起こした連作である。正確には、1981年7月24日(吉村にとって31回目の誕生日)に開始され、当初は一日一枚のペースで自画像を完成させていたものの、次第に撮影と描写の間隔が開き始め、365点目が完成したのはじつに9年後だったという。ふつう日記の継続がいくどか中断されると心も折れがちだが、その連続性をあくまでも死守する吉村の執着心は並外れてすさまじい。
おびただしい数の自画像をていねいに見ていくと、基本的には吉村の顔がただ連続的に羅列しているだけだが、視線を細部に及ばせると、服装、頭髪、髭、そして背景がゆるやかに、しかし刻々と変化していく過程がよくわかる。吉村の肉体を貫く時間の流れを逐一目の当たりすることができるといってもいい。
不思議なのは、吉村芳生の連続的な自画像をひと通り見たからといって、必ずしも吉村の内面的な部分を伺い知ることはできないということである。自画像といえば、青木繁にせよエゴン・シーレにせよ、強烈な自我意識が露呈していることが少なくないが、吉村のそれは、おそらく青木やシーレ以上の時間と執着心をもって自分の顔を執拗に描いているにもかかわらず、自意識や内面がまったくといっていいほど感じられない。これは、吉村の自画像を見るたびに心の奥底に残される奇妙な違和感である。
とはいえ、そこに一抹の情感を見出すことができないわけではない。365枚の自画像は、一見すると無表情で統一されているようだが、よく見ると、ひじょうに細やかな情感が随所に隠されていることに気づく。その後吉村はこの連作を新聞紙の上に自画像を描いた《新聞と自画像2009年》として発展的に展開するが、ここでは描かれた顔の表情が新聞記事が伝える事件や事故の内容と照応しているように見えるので、吉村の個人的な主観性がよりいっそう引き立っている[*14]。その意味では、自意識や内面が皆無というわけではないのだが、それにしてもひじょうに微細な水準であることに変わりはない。
つまり、吉村の自画像は徹底して即物的なのだ。そこにかすかな情感がにじみ出ることがなくはないとしても、吉村の関心はおそらく人格としての顔にはなく、物質としての顔にある。吉村の自画像に覚える奇妙な違和感は、おそらく顔の表面的な造形が徹底的に忠実に写し取られているがゆえに、その顔を前にしながらも当人の存在感や固有の個性を把握することがきわめて難しいという事情に由来するのだろう。やや大袈裟にいえば、あの顔の向こうには無限の空虚が茫漠として広がっているような気すらするのである。
《新聞と自画像 2009年》2009 山口県立美術館での展示風景 撮影:山本糾 提供:吉村芳生

《365日の自画像 1981.7.24-1982.7.23》1981-90
山口県立美術館での展示風景
撮影:山本糾
提供:吉村芳生

《365日の自画像 1981.7.24-1982.7.23》1981-90 山口県立美術館での展示風景 撮影:Omura Printing Co., Ltd. 提供:吉村芳生

《新聞と自画像 2008.10.4》2008
撮影:Omura Printing Co., Ltd.
提供:吉村芳生

《新聞と自画像 2008.10.4》2008 撮影:Omura Printing Co., Ltd. 提供:吉村芳生

《新聞と自画像 2008.10.8》2008
撮影:Omura Printing Co., Ltd.
提供:吉村芳生

《新聞と自画像 2008.10.8》2008 撮影:山本糾 提供:吉村芳生

《新聞と自画像 2009年》2009 山口県立美術館での展示風景
撮影:山本糾
提供:吉村芳生

具体的な内容を欠落させたまま継続的に制作される日記としての絵画。このような絵画を志向しているという点で、河原温と吉村芳生はおおむね共通している。ただ、その日記=作品に何を描き出すのかという点で、両者にははっきりとした相違点がある。河原温がみずからのポートレートや経歴を意図的に隠蔽しながらも抽象性と断続性によってみずからの実在を書き込んでいるとすれば[*15]、吉村芳生は自分の顔をあえて公開しながらも具象性と連続性によってみずからの非在を描き込んでいるのだ。河原の顔が見えないにもかかわらず、その日記=作品には河原の姿がたしかに感じられる一方、顔の見える吉村の日記=作品に吉村の姿を見出すことはできない。このねじれた関係性は、今日の日記=作品を鑑賞する上で、ひとつの基本的な分析軸になりうるのではないだろうか。


[*1]野見山暁治『アトリエ日記』清流出版、2007年/『アトリエ日記続』清流出版、2009年/『続々アトリエ日記』清流出版、2012年(生活の友社による雑誌『美術の窓』で連載中)

[*2]山口晃『すゞしろ日記』羽鳥書店、2009年(東京大学出版会による雑誌『UP』で連載中)

[*3]奈良美智『NARA LIFE/ナラ・ライフ 奈良美智の日々』フォイル、2012年

[*4]『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』講談社文芸文庫、2008年/『村山槐多全集』彌生書房、1963年

[*5]『関根正二遺稿・追想』中央公論美術出版、1985年

[*6]『前田寛治病中日記』八坂書房、1999年

[*7]『碌山日記─つくまのなべ』同朋社出版、1980年

[*8]『夢二日記』筑摩書房、1987年

[*9]『小出楢重絵日記』求龍堂、1968年

[*10]中原佑介「野田哲也の『日記』」、『野田哲也全作品Ⅱ1978-1992』フジテレビギャラリー、1992年

[*11]《Today》シリーズについての包括的な研究としては、以下を参照。山田諭「河原温研究ノート:“Today”シリーズについて」、『美術史における軌跡と波紋』中央公論美術出版、1996年

[*12]1995年の時点で2000点が確認されている。

[*13]東野芳明「野田哲也と語る」、『みづゑ』1977年10月号、p.101

[*14]この連作は、1988年の誕生日から再開されたが、このときは写真ではなく鏡を見ながら原寸大で自画像を描写した。最終的には、双方を掛け合わせて《730日の自画像》として発表された。

[*15]河原温はインタビューに応じることはなく、ポートレートもみずからは公表していない。展覧会の図録に掲載されるバイオグラフィーすら、生誕日から当日までの総日数を記すなど、自分のイメージを徹底して秘匿している。そのためだろうか、河原温についての論評は、肝心の作品評の前に、「河原温本人と会った!」という新鮮な驚きを綴ったものが、じつに多い。以下を参照。本間正義「その絵の河原温――ニューヨークのアトリエを訪ねて」、『美術手帖』1965年12月号/加藤種男「百万年の中の1日を生きる証――河原温への手がかり」、『日経アート』1998年2月号