今回、映像祭のオフサイト(野外)展示として出させていただいた「The EyeWalker」は、真冬のビル風吹きすさぶ過酷な環境にもかかわらず、致命的なトラブルもなく無事終了し、さらに予想を上回る大きな反響をいただく結果になった。
今日まさに撤収が終わったので、この熱が冷める前に、作品を振り返ってみたいと思います。あまり細かく話す機会も無いし、せっかくなのでかなり長くなること覚悟でここに書いてみたいと思います。
ちなみに作品を知らない人には、ちょっとわかりにくい文章になると思いますが、読売新聞のサイトに詳しく動画で説明されているので、こちらを見ることをお勧めします。
http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/exonemo.htm
元々は山口情報芸術センター(YCAM)からの委託作品として、去年の10月に公開したEyeWalkerが、恵比寿でバージョンアップ、作品の基本的なところは変わってないものの、野外対応で作品全体のスケールがアップしたのと、細かい操作性や演出が詰められたことで体験上のクォリティがかなり向上した。
実はYCAMから依頼をもらった時期と、恵比寿映像祭からの依頼の時期が、かなり近かったこともあり、作品を巡回させることは最初から視野に入っていた。そういう意味もあって「見ること」に加えて「映像」についてもテーマになっていた。そして映像祭のテーマ「フィジカル」は、偶然にも「視線」で操作するフィジカルな体験を映像にもたらすということでドンピシャと相成ってGoという展開に。
●The EyeWriter
今回、視線の入力技術として利用している「The EyeWriter」システムは、それ単体として各方面で高い評価を受けたアートプロジェクトです。難病により体が動かなくなったグラフィティ・ライターTEMPT1が、目の動きだけでグラフィティを描けるようにするというプロジェクトの背景があり、それにまつわるムーブメントがセットになったプロジェクトとして評価されている。僕らエキソニモが、このEyeWriterシステムを利用するにあたっては、その背景には特に触れず、単純に視線入力のシステムとして扱っています。それはEyeWriterのウェットな問題には、生半可に踏み込めると思わないので、ドライなテクニカルな部分の方を取りました。
●モニタ・見ていること・位置
視線入力のシステムを起点にして作品を考えた時に、真っ先に浮かんだのは「見るだけで反応するインスタレーション。」たとえば、見るだけで動き出す楽器や装置など、まるで魔法の様に目線だけで操れる、という単純なインスタレーションでした。
ただそれは打ち合わせの中で一瞬で却下になった。メディア技術を使って「魔法」を起こすことは、ある意味正しい技術の使い方かもしれないけど、僕ら的にはストライクでない。僕らは技術が単純に人間の欲望を補助するだけに利用されるのが好きではない、、、というか自分たちがやるべきことじゃないと感じたのです。
そこで一旦、この視線入力装置がやっていることは何なんだろうと考えてみると、モニタの中の見ている座標をプロットしているのだという単純な原理まで戻り、実はそれは本質的な「見る」行為の中の「見ている位置」という単一の情報を切り出しているだけ、ということに気が付きました。つまり「見る」に含まれる複雑な問題の、ある一点だけにフォーカスした技術なのです。
そして、その見ている対象は常に「モニタ」であることも気が付きました。つまり、そこに映っている映像を見ている、と同時に、ただ単に発光しているモニタを見ているということなのです。そして、自分は常に同じ距離でモニタの前に座っている。この位置関係はモニタに何が映っていようが変わらないのです。
そこからアイデアが膨らんでいき、モニタを複数設置して、次々とモニタを「見る」ことによって渡り歩いていくことで、自分の「居る場所」に揺さぶりをかけ続ける「The EyeWalker」のアイデアが出てきました。
それは「まるで自分がそこに行ったかのような体験」を感じるという映像の根本的な性質に対してのアイロニーでもあります。テレビでアフリカの景色を見ている時、PCでFacebookを見ている時、iPhoneでUSTREAMの中継を見ている時、僕らの意識はココではなくて、向こう側に飛ばされています。そんなあたり前の映像体験を、この視線で操る技術と組み合わせれば、「見る」行為そのものと結びつけて、いつもの「映像への没入」をフィジカルに体験させられます。そこを強調することで逆説的に映像のもつ問題に触れられるのではないかと。
●見ることとインターフェイスの関係
YCAMでのファーストバージョン制作の途中に、予想しなかった現象を体験しました。
このEyeWalkerシステムでは、画面の風景の中に、四角いポインターが表示され、そのポインターを視線で操作するのですが、ポインターが画面に乗っていると、背景の映像が「見れなく」なってしまうのです。実際に見えなくなるのではなくて、意識が見なくなってしまう。ポインターがあるだけで、それは映像ではなくて“インターフェイス”になってしまうのです。「見る」ことが「操作すること」に無意識の内にすり替わってしまい、ちゃんと画面の向こう側を感じなくなってしまうのです。
「断末魔ウス」などで映像とインターフェイスの関係を扱っていた自分たちにとってはこの「気持ち悪さ」は重要なポイントだと思いました。そこでEyeWalkerでは、ジャンプした直後は数秒間ポインターを表示せずに、単純な映像として見てもらうような時間を作っています。そして、その間隔をジャンプするたびに短く設定していき、最後のほうでは0秒になり、完全なインターフェイスモードになります。映像からインターフェイスへ、次第に自分自身がよりシステムの側にシンクロしていくような体感の演出としての狙いがあるのですが、まだ詰め切れてない部分かなとも思っていて、今後もうちょっと追求してみたいところです。
● ワープするアニメーション
ワープする部分のアニメーションは、実は単純にワープ感を追求するような演出にはなっていません。Google Street Viewで道の向こう側をダブルクリックすると、すいっと画面がワープする感じに切り替わりますが、そういう気持ちよさとは別の方法で表現してます。具体的には、見たモニタの部分が拡大されるのですが、その周りは単純に拡大するのではなくて、押しのけられるように平面的に伸び縮みしていくようになってます。これは単純にワープ感を出すだけだと、それだけで了解されて終わってしまうので、あえて平面的なエフェクトにすることで違和感を残して、モニタは所詮平面なんだということを言いたかったりもします。
●見ること・見られること
EyeWalkerではあまり説明されてない仕掛けとして、その人が「憑依」しているモニタにはその人の目が映し出される、というのと、その人が憑依したモニタは以降、その人のまばたきと連動して、画面が点滅するというのがあります。
普通に監視カメラのような状態だと、誰かがそこにアクセスしていようがいまいが、見られている側にはわかりません。人が見ているカメラのモニタに目が出ることで、見られる側も「見られている」ことを少し意識するのではないか。また、体験中のブースの中の様子が外側のモニタに映されていたり、反対側のブースの中に飛び込むと、相手が画面に大写しで見えたりし、見ることがそのまま見られることでもある状態になっています。
●公共空間で秘密裏に行われる
恵比寿とYCAMとの一番の違いは、恵比寿の場所がめちゃくちゃ公共空間であるということでした。もともと近所に住んでたこともあるので、この場所の特性(子連れが多く、アートなどに興味ない散歩中や仕事中の人が行き交う場所)はよく分かっていました。EyeWalkerを恵比寿でやろうと考えた時に、単純にこの作品のテーマや体験を、そこに元々遊びに来ている人に直接ぶつけることは意味がないことなのは120%分かっていたのです。ただしそれでもこの作品が成立すると思えたのは、作品自体が二重の構造になっているからでした。
つまり、体験しない人が外側からこの作品を見た時には、単純に風景を写したモニタが並んでいるだけなのです。いつものように遊んでいると、モニタにふと自分が映っている。日常の中でメディアと出会う一番根本的な体験がただあるだけです。そこには特段メッセージも無いし、非常に陳腐であるわけです。
ただ、突然目玉が映し出されたり、不定期に画面が暗くなったりするということは起こるので、少しだけ違和感があります。単純に散歩中だったり子供を遊ばせている人は、画面に自分が映ることで十分楽しんでるんですが、すこし違和感に気づく人(またはこんな単純な仕掛けをこんな大袈裟にやるわけがないと疑う人)などは、左右にあるブースの横の説明なり、説明員に話しかけるなりで、深く進める入り口があるのです。
そして体験すると、表の無邪気な光景から引き剥がされるような、今まで自分が所属していた空間(何でもない公園)から別の空間へと飛ばされたような気持ちになる、という狙いがあります。
●エンディングでのフラッシュバック
YCAMバージョンで展示公開前日に実装されつつも廃止されたアクションに、「目をつぶっていると元来た道を戻れる」というものがありました。廃止した理由は操作や説明が複雑になることと、展示という一回の体験の中でそこまでの機能は必要ないという判断でした。ただそれが心のどこかに残っていて、今回はエンディングで、強制的に今まで来た画面が(チュートリアル画面含め)全部フラッシュバックします。これは映像の没入感をリセットして、所詮映像はモニタであるという意味が含まれています。
● やはりWebだった
今までWebに関係する作品を多く作ってきた自分たちですが、今回のEyeWalkerは「Web的じゃなくて映像的だ」と勝手に思っていました。しかし、モニタとモニタの接続関係をエディットする自作の設定画面を操作していたら、懐かしい感覚に襲われました。まるでWebでページ間にリンクを設定している作業と似た感覚なのです。自分たちが物事を考えるときの考え方が、無意識的にもWebに強く影響されていることに気が付きました。
以上、「The EyeWalker」は、映像にまつわる僕たちの見方が複数含まれた作品です。乱雑に散りばめられていて、それぞれに答えが提示されているわけでもないです。でも、解かれない複数の問題点がほどよい塩梅で混ざり合う状態が、作品にとっては良い状態なのではないかと思っています。そして、見る側も自由なレイヤー/角度で楽しんでいただければ幸いです。今後、ばら撒かれた伏線はバージョンアップ版、もしくは全然別の作品で回収させていただければと思いますので、そちらもお楽しみに。
僕たち人類にとって「映像」とはかなり重大な問題なのではないかと思います。映像が無かった時代を想像すると、目の前に見えるもの以外の空間が存在しなかった(ファンタジーであった)世界であったわけです。昔の人達は、目の前の物理現象に反射していくという、より「動物」に近い生活を送っていたのではないかと思います。映像の登場によって、遠くにある空間がありありと目の前で再現され、世界の構造が大きく変わりました。人間は動物よりも、より一層、人間の側に引き剥がされたのです。
みんなで一つのスクリーンを見る、映画の様な映像から、一人ひとつ以上のスクリーンをポケットの中に持ち歩くスマートフォン/PCの映像の時代になりました。“ここ”から映像の中へ、という単純な旅行だけでなく、スクリーンからスクリーンへと渡り歩く旅も日常化しています。
ただし、同時に僕たちの身体は、常にスクリーンの手前の側で、不恰好なまま(動物のまま)置き去りにされていることも事実なのです。