第5回恵比寿映像祭のテーマは「パブリック⇄ダイアリー」。このテーマ、一見するほど分かりやすくはない。たとえば「パブリック⇄プライヴェート」であるのなら事はシンプルなのだが、「プライヴェート」ではなく「ダイアリー」である。なぜ「ダイアリー」なのか。そんな素朴な疑問を抱きつつ、展示作品や上映作品と向き合う(これを書いている時点では未見の上映作品やパフォーマンス作品もあるのだが)。  膨大な数のヴィデオレターの集積(クリストファー・ベイカー)、未来の日付の入ったスナップ写真(荒木経惟)、痛みを伴う歴史との対話(ヒト・スタヤル、シェイラ・カメリッチ)、撮影する/編集する主体の曖昧さ(ワリッド・ラード、クリスチャン・ヤンコフスキー《ドバイの瞳》)、フィクションとノンフィクションの境界の往還(宮永亮、ベン・リヴァース、ジェレミー・デラー)、観察あるいはデータとそのドキュメンテーション(ザ・プロペラ・グループ、野口久美子/平川紀道/森浩一郎、野口靖)、ノートのメモやドローイング、行為の集積と生成(鈴木康広、木村太陽、川口隆夫、石田尚志)。時代の顔としての雑誌という伝達メディア(マンゴ・トムスン、『写真週報』)。それから日付のみというストイックな絵画(河原温)。
 主題も手法もさまざまなこれらの展示作品に共通しているのは、何事かを「記録する」行為の痕跡である。「日記=日々の記録」という縦軸と「映像=記録メディア」という横軸がさまざまなパラメーターで交差し合う地点で形成された作品群なのだ。改めて「日記」という古来連綿と続けられて来た営みについて振り返ってみれば、「日々の記録」とはいえ、私的で秘密めいた記録としての「日記」もあれば、特定の誰か(たとえば一族の子孫あるいは目的を同じくする複数の人間)ないしは不特定多数の誰か(出版物の読者あるいはネット上のブログに立ち寄る人々)が読むことを前提として書かれた「日記」もある。日記が記される目的(何のために)とともに、手段(いかなるメディアによるか)もまた、その記述内容の本質に関わる重要なモメントとなろう。デジタルメディアと映像技術が生活ツールとして浸透していくにつれて、記録の秘匿性は希薄になり、ブログや動画サイト、SNSを通して、日々さまざまな個人的記録(記述)が不特定多数の人に向けて公開されるようになった。

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より 荒木経惟《未来 2011.3.11-2015.4.24》2012

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より
荒木経惟《未来 2011.3.11-2015.4.24》2012

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より 野口 靖《レシート・プロジェクト》2013

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より
野口 靖《レシート・プロジェクト》2013

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より 鈴木康広《記憶をめくる人》2013

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より
鈴木康広《記憶をめくる人》2013

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より 『写真週報』/個人蔵 撮影:新井孝明

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より
『写真週報』/個人蔵 撮影:新井孝明

パブリック⇄ダイアリー⇄プライヴェート

未知の「誰か」に読まれることを想定した日記。そして、未知の「誰か」からのコメントが書き込まれることすら想定した記述。個人によって構成される見えないコミュニティを媒介するのは、専門的な知識や情報、趣味や嗜好、政治的心情等々、プライヴァシーにかなり接近した領域である。しかし、記述する「主体」は公開するべき領域(擬似プライヴァシー)を操作し、またこれらの記述に触れる側もそれが操作されているものであることを前提として接する。
 ならば、ここで目を向けるべきは、パブリックとプライヴェートを媒介する(または遮断する)記録行為としての「ダイアリー」なのだ。より正確に記すならば「パブリック⇄ダイアリー⇄プライヴェート」となろうか。しかし、双方向矢印が示すのは各領域の定義それ自体の曖昧さであり、さらに言えば「記録」という行為に潜む曖昧さでもある。そこで「記録されるもの/事」とは何なのか。そして、それは一体「誰のために」記録されるのか。写真にしろ動画にしろ、映像技術は何ものかを写し/映し出す技術である。だが、写す/映す主体と写される/映される対象(客体)との関係もまた揺らいでいくだろう。「イメージの創造よりもイメージの流通の方に関心がある」とヒト・スタヤルが言うように、ひとたび生成されたイメージはまるで意志あるもののようにイメージの連鎖を生成し、流通させていきながら、それらのイメージの複製かと見紛うような現実すら誘き寄せる。

 記録をめぐる多岐にわたる出品作品と上映作品のなかでも、「パブリック⇄ダイアリー⇄プライヴェート」という相互矢印の構図において、パブリックとプライヴェートを遮断するダイアリーのあり方を端的にとらえているのは、大江崇允の《適切な距離》だろう。本来は秘匿せねばならない日記の内容が、母と息子の間で互いの心理を探り合うために相手に読ませるツールへと変貌していく。ひとつの現実をめぐる2つの解釈が交錯し、映されたシーンが映画のなかで生起している「現実」の出来事なのか、それとも母と息子が相互に理想と想い描く架空の生活描写なのかも判別できない状況へと展開していく。日記は事実の記録どころか、虚構の構築を通してコミュニケーションを図る手段となる。結局、何が起きていたのかは定かではなく、物語は宙吊りのまま映画は終わるのだが、寄る辺無さげな幸福感が奇妙な余韻を残す。
 また、映像制作者のプライヴァシーではなく映される人々の「プライヴァシー」を織り込みつつ、パブリックとプライヴェートを媒介するダイアリー(記録)の例としては、マイク・ケリー《MOBILE HOMESTEAD》とペドロ・ゴンザレス・ルビオ《祈 −Inori》を挙げておきたい。ケリー作品に登場する彼自身の生家のファサードの実物大模型は、故郷ないしは帰るべき「家」のシンボルであり、ケリーの個人的なノスタルジーが直接的に投影されているわけではない。だが、ケリーの生家のある街とデトロイトという大都市をつなぐ幹線道路の周囲に生きる人々を通して、自動車産業で時代を画した大都市とその郊外がたどった栄枯盛衰の記憶と現在の時間が紡がれていく。ケリーが描く20世紀アメリカの縮図に対して、ゴンザレス・ルビオが捉えたのは紀伊半島の山間部にある過疎集落である。村の人々の断片的な言葉はこれまでの生涯の出来事と今の暮らしを淡々と伝える。
ペドロ・ゴンザレス・ルビオ《祈-Inori》2012/72分/日本語

ペドロ・ゴンザレス・ルビオ《祈-Inori》2012/72分/日本語


いずれの作品も、人の気配の希薄な風景が、今ここには映されていない「かつて」の情景を呼び起こす。プライヴェートな記憶の集積はパブリックな記憶の幻像を生成しうるのだろうか――。そのような問いを立ててみると、アメリカの大都市と日本の寒村を対象としたこの2つの作品の間に奇妙な共振が起こる。カメラが捉えたその土地固有の光、それだけが実際に「映されたもの」なのではないだろうかと。
 記憶と記録という関係から、シェイラ・カメリッチとヒト・スタヤルにも触れておきたい。今回の展示および上映ではナチスによるユダヤ人収容所、ユーゴスラヴィア紛争、クルド独立運動に関わる作品が選ばれている。2人はヨーロッパがかつて、そして今も抱え込んでいる問題に焦点を当てつつ、「何が起きたのか」をめぐる思索を映像化する。2人とも映像作品とインスタレーションを組み合わせる形式を採用しているが、カメリッチの映像はドキュメンテーションではなく、ある記憶を先鋭化するために創作されたものである(赤をめぐる映像作品とインスタレーション作品とを関連づけて見る必要あり。しみじみと痛みが伝わってくる)。 それに対してスタヤルはドキュメンテーションと既存の映像資料を組み合わせることで、失われた人命や映画フィルム(あるいは航空機!)など、すでに存在しないがかつて確実に存在したものへの記憶をたぐり寄せていく。2人の作品に共通する歴史の狭間に挿入された「痛みの記憶」は、だが、そこで何が起きたのかを解明するものではない。解明は不可能であり、その不可能性をめぐってこそ映像の生成が行われるのだと、語りかけられているようでもある。

記録は可能だろうか?

映像が「記録する」のは「事実」ではなく、レンズを通して「事実である」とある時に捕捉されたもののみと断定できるのだろうか。映像を見る側は、それが「事実であるかどうか」の確証は得られない。さらに、その記録を写した(映した)主体が設定通りの人物であるかどうかさえ、実際には確認しようがない。それでも、人は写された(映された)ものを「そのようなもの」として受け止め、見る行為を止めない。そして、そうした曖昧さをまとったイメージを自ら産出し、ネットを介して拡散することも――。
 昨年末に当美術館で開催されていた展覧会のタイトルが脳裏をよぎる。それは「記録は可能か」と問いかけていた(「映像をめぐる冒険vol.5 記録は可能か。」)。「記録」という言葉には、客観的な記述というニュアンスが宿る。だが、客観的記録など(そしてまた客観的真実など)存在しえないことを私たちは知っている。では、何が何を可能とするのだろうか――。この問いが万華鏡のように幾重にも分裂し、互いに反射し合っている。などと書いてしまうと身も蓋もないことになろう。本映像祭は、「映像とは何か」というテーマを踏まえて毎年開催されているのだから、年ごとのテーマはおのずと根本的な問いへと連なっていかざるを得ない。そして個々の作品もまた、根本的な問いから生まれてくるのだ。

したがって、上記以外にもクリスチャン・ヤンコフスキー《ドバイの瞳》やベン・リヴァース《スロウアクション》など、個別に触れておくべき出品作品は多い。だが、現時点では「パブリック⇄ダイアリー⇄プライヴェート」の往還と循環から生まれた作品群の、輻輳的でありながら多様性に満ちた音と映像の海に溺れそうな気配が濃厚である。
 映像が与える感覚刺激は強烈であり、その薬効はしばらく続く。身体の奥で微細に熱を帯びて渦巻く神経興奮が鎮まるには、いましばらくの猶予が欲しいと思う。時をおいて、作品が投げかける問いを反芻しつつ、個々の作品の精度とヴィジョンが切り拓く地平を検証する必要があるからだ。だが、そうして受け止めたものを反芻し、考え込んでいるうちに、1年が過ぎ、また新たな映像祭の季節が巡ってくる――。

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より シェイラ・カメリッチ《幸福》2010ほか 協力:ターニャ・ワグナーギャラリー

第5回恵比寿映像祭フェスティバル会場より
シェイラ・カメリッチ《幸福》2010ほか
協力:ターニャ・ワグナーギャラリー