リポートをすることになって意識的に観ていくと、「恵比寿映像祭」は、日本語名より、英語「Yebisu International Festival for Arts & Alternative Visions」のほうがよりよく内容を表していることに気づいた。しかしこれを日本語で端的に表す言葉を見つけるのは意外と難しいかもしれない。
多様な視覚・映像表現を観られるこのフェスティバルは、展示だけにとどまらず、アーティストや関係者によるトークで肉声に触れ、上映などに何度か足を運ぶと、私たちを取り巻く世界の複雑なレイヤーが浮かび上がってくるのを体験できる。映像は二次元ではあるがそのなかにあるのは三次元、いや多次元だ。また、作品の技法やプレゼンテーションの方法のバラエティといったことは或る一面ではあるが、もちろん大きく印象を左右する大切な面でもある。
館内展示とオフサイト展示&パフォーマンスだけを観て帰った前回と、9つの上映プログラムやラウンジトークにも参加した今回の印象は格段に違う。お祭りにはやはり積極的に参加するべきだと確信。
映像、アニメーションの源流は幻灯(影絵)にあるとも言われるが、影は“何か”があるから現れるわけで、私たちの生きる世界をさまざまな角度からこのフェスティバルという枠組みあるいは皮膜の上に映し出しているように思われる。
今回のテーマは「デイドリーム・ビリーバー!!」という耳に馴染みのあるフレーズだ。愚かにも同名の小説やザ・モンキーズのヒット曲が頭に浮かんだりする一方で、自身がそれほど普段このことについて考えることがなかったことも改めて自覚した。しかし、「デイドリーム(白日夢)」の意味やイメージを何重にも織り込んだ今回の企画に触れていくなかで、作品のなかから与えられる情報を重ね合わせて、自身のなかで新たな「デイドリーム」の世界を再構築し、心地よく泳がせてもらえるのが楽しくて3日間も通いつめてしまった。
地下から2階までの階段の踊り場にモニター展示を施したしりあがり寿《白昼夢夫人シリーズ》のようなタイトルまで文字通りのものもあれば、上映プログラムにあるエイドリアン・パチ《アルバニアン・ストーリーズ》のように夢とも現実ともつかない胸に突き刺さってくる物語を当時3歳だった過酷な体験をした作者の娘が口にしている姿を撮った短編まで、数えきれないほどのコンテンツが満載だ。そして、ある傾向にまとめることは出来ないが確かに「デイドリーム」を手がかりにすると、そこから読み解くことが容易になる。
16の作家による展示は、3Fのアピチャッポン・ウィーラセタクンの映像インスタレーションからはじまる。部屋の中央部分に浮かび上がるサイレント作品は序章としては十分過ぎる魅力に満ちている。ウィーラセタクンと言えばカンヌ映画祭での受賞が記憶に新しいが、衒いのない上品な展示にセンスが光る。会場に展示された原画や映像インスタレーション。シングルチャンネル映像の上映に親しんできた人にとって、とくに松本力の作品は異質に感じるかもしれない。上映プログラム「実験とアニメーション」でも上映されるが、彼の作品は展示のなかでもひと際異彩を放ち、作られるプロセスに出合うということとはまた別のざらざらとした触感が迫ってくるのを感じられる。手の痕跡に驚きやわくわくするような気持ちが混ざり合い、胸を鷲掴みにされているような想いに駆られるのは、松本自身が作り上げてゆく途上の感覚をわたしたちが共有しているからに違いない。
国際的に評価も高く、日本にもファンの多いヤン・シュヴァンクマイエルは新作を披露。上映後のQ&Aでは「自身の作品をイマジナティブな映像と呼んでいる。リアリスティックな作品は背景(文脈)がわからないと理解出来ないが、イマジナティブなものはだれが観ても理解できる」「知覚の中で触覚がすべてのなかで最初にでてくる。シネステージア―感覚が響き合うことを意識して制作している」といった内容の本人の言葉に、作品を思い起こしながら納得させられた。
消費社会の申し子であるような世代のアーティストたちが、白日夢から目覚めよと言わんばかりに、生き抜くために何をするべきか問いを投げかける批評性をもった作品を出展している。短編アニメーションH2《ロゴラマ》や、グローバル化する資本主義経済を考え、暮らしと密着する部分で模索し活動をするデンマークのアーティストグループ、スーパーフレックスの《マクドナルド浸水》も強いインパクトを残す作品だ。
国内外から数多く出品されるなか、今回はオーストラリア、ニュージーランドといったオセアニア出身のアーティストが比較的多く取り上げられていた。比較的、東南アジアやアフリカの作品が少なく、そういった地域でも質の高い魅力的なものが多く見受けられるが日本国内で紹介される機会が一般的には少ないので、是非次回以降そういったところにも焦点が当てられることを期待する。
通常の東京都写真美術館で開かれている展覧会よりも、リーチする層が幅広く、敷居は確実に低くなっている。また過去の2回とは異なり、徒歩圏のギャラリー等での地域連携企画なども加わり、点でしか見えなかったアートの力が、それぞれの会場やプログラムが面となって界隈の魅力を向上させたことも付け加えておきたい。