恵比寿映像祭は「映像」をキーワードとして、写真、フィルム、ヴィデオ、インスタレーションといった諸メディアを横断する場である。また、恵比寿映像祭は現代美術家による映画や映像、実験映画、ドキュメンタリー、ショートフィルム、コミュニティヴィデオ、TVのドキュメンタリー番組といった複数のジャンルを交錯させる場である。私が恵比寿映像祭を評価するのは、ポストモダニズム以降のフラット化した国内の芸術・文化状況のなかで、無秩序な越境による表層の横滑りに陥ることなく、ある種のバランス感覚を保ち続けているところにある。それは、上映プログラムごとに、外部のプログラマーに構成を委嘱するというシステムにも表われている。このシステムのおかげで各プログラムはそれぞれがジャンルごとに固有のコンテクストを持ちえることになり、軽薄かつ安直なボーダーレス化ではない、緊張感のある横断と交錯を発生させることになる。フラット化した状況に開き直って多種多様な作品をだらだら羅列して見せても何も興奮しない。そうではなく、私はこの映像祭のような緊張感のある横断と交錯を高く評価する。
私が観ることのできた作品展示と上映プログラムのなかで、具体的にその横断と交錯がどのようなものであったかについて言及したい。まずひとつめに、今回の映像祭では、展示における写真の重要度が増していたのだが、それはこの映像祭のユニークなコンセプトを強調するものになっていたと思える。「映像」という言葉を広義に捉えた上映主体のフェスティヴァルは、どうしても写真を取りこぼしてしまうのだが、本映像祭は写真美術館という性格上、写真を積極的に取り上げている。このように写真を広義の「映像」として捉えることは、興味深い可能性を示唆するだろう。それは、今回であればアルフレッド・ジャー、フィオナ・タン、アンダース・エドストローム、ジョナス・メカスの仕事のなかに見出せる(例えばC・W・ウィンター+アンダース・エドストロームによる《The Anchorage 投錨地》★5は、ダイレクトシネマ的な、時間的持続による厚みのある視覚経験を観客に与える。この平板な持続のなかでスクリーンを凝視することは、彼の写真の仕事をまた違った角度から照らし出す)。
2つめに、シリン・ネシャットやアルフレッド・ジャー、フィオナ・タンといった現代美術のコンテクストにある作家の映画・映像の取り扱いである。ここ10年ほどで、美術館における映像を使用したインスタレーション作品の展示は激増した。しかし国内においては多くの美術館は現代美術のコンテクストにあるスクリーン上映のための映画・映像作品に対応しきれていない。それらの映画・映像作品は「美術館による展示」という文化的システムと、「映画館での上映」という文化的システムの狭間で居心地悪く中吊りにされたままである。本映像祭の開催されている東京都写真美術館は、通常の美術館よりも映像に特化した性格を持っていると言えるわけで、このような映画・映像作品にとっては、現代美術のコンテクストを拡大させて作品を上映することのできる、この上なく良い場所となっていた。
3つめに、これは前回の恵比寿映像祭における大島渚の上映プログラムにも言えることだが、本映像祭がコミュニティヴィデオやTVドキュメンタリーを作品として取り上げていることが挙げられる。今回の上映プログラムであればDCTV(ダウンタウンコミュニティテレビジョンセンター)の上映プログラムや寺山修司の上映プログラムがそれである。このような市民レヴェルでの映像の活用や放送番組はそれを回収するコンテクストの不在から、一度上映・放映されればそれっきりとなる場合がほとんどである。しかし、そのなかには興味深い市民運動や、映像作家・映画監督の関わった仕事もある。美術館や映画館という場所が持つ文化的コンテクストに対して、このような社会的有用性を目的とするコミュニティヴィデオやTVドキュメンタリーを対置させることは、芸術に対する極めて興味深い問いかけを発しているように思える。そのような仕事を拾い上げることに本映像祭は貢献している。
4つめに、これは私の思い入れも過分に込められてしまうのだが、本映像祭が実験映画、あるいは実験映像を積極的に取り上げていることは重要である。西川智也による上映プログラムや、シックスパックフィルムによるオーストリア実験映像の上映プログラムがそれにあたる。周縁的な映画・映像のなかでも特に実験映画やヴィデオアートは、海外の状況とは対照的に、国内においては現代美術の側からも、劇映画の側からもほとんど取りこぼされてきた。現代美術と劇映画の狭間で、実験映画はなかったことにされているような状況である。その無関心が何であったのかについてはここでは言及しないが、少なくとも国内の美術館やフィルムセンターといった公的な施設においては、実験映画は場所をまったく有していない。実験映画やヴィデオアートはひとつの様式化されたスタイルではありえないため、あらゆるジャンルの映画・映像に対するユニークな、そしてクリティカルな参照項になるものだと私は考える。私は、東京都写真美術館という場所で開催される本映像祭が、美術館やフィルムセンターといった公的な施設が実験映画やヴィデオアートに一定の場所を提供する動きの嚆矢になってくれればと期待する。
視覚体験と受容の多様さを示すものであった前回の「オルタナティヴ・ヴィジョンズ“映像体験の新次元”」というテーマから、今回の映像祭では「歌」をキーワードに「歌をさがして」というテーマが設定されている。ここでの「歌」とは、言葉通りの歌や音楽あると同時に、映像メディアを介して継承される記憶や文化的コンテクストであったと理解することができる。このレヴューではテーマと作品展示・上映プログラムの関係については触れることができなかったが、この点においても本映像祭は興味深い試みを行なっていたことは指摘しておきたい。
最後に個人的な印象であるが、学生や若い世代の観客が多く見られたことは好ましい傾向だと思った。劇映画とはまた違った、このようなオルタナティヴな映画・映像に対する飢えのようなものは、確実に存在しているのだと思う。あとはその飢えに対して、どのような作品を提示することができるのか、そして継続することができるのかが問われていると言えるだろう。このような幅広いコンテクストの映像を包括し、横断、交錯させるような場所は、国内においては今まで存在しなかった。前回、そして今回と、出だしは好調である。