世界初のトーキー版長編映画は、1927年に作られた。トーキーの開始が、ほかならぬ「歌」から始まったのは、その後の映画の展開を考えると、興味深い史実である。その映画は言うまでもなく、アル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』であるが、音(audio)と映像(visual)の技術的なカップリングが獲得された際、選択された「音」とは、文字通りの「歌」だったわけである。だが、ミュージカル映画という例外はあれども、映画は基本的に歌を抑圧してきたように思われる。劇映画においてもっぱら重視されるのは物語であり、歌や音楽一般の使用は、あくまで物語を効率よく語るためのエコノミーにかかわるものであり、物語の構造に直接関係するものではない。
この、歌と映像との出会い損ねは、何も映画に限ったことではない。そもそも、より広く、視覚芸術一般に敷衍される問題である。この問題は、芸術諸ジャンルの弁別にかかわる。もっぱら見ることにかかわる視覚芸術にとっては、「歌」のように音楽にかかわる表現形式は、不純なものになるわけだ。「歌」だけではなく、音楽や音一般にまで話題を広げるならば、例えば、絵画であればカンディンスキーやクレーのような画家は、確かにその絵画の構造に音楽形式を導入したし、あるいはゴダールのような映画作家は、音と映像を編集上の不可分な構成要素として使用する(sonimage)。しかし、そのような事例においてもまた、「歌」は音楽や音一般のサブカテゴリーとして扱われることを越えるものではなく、例外を越えるものではない。20世紀以後にあらわれ、今日ではほぼ定着したと言ってもいい芸術諸ジャンルのインターメディア的傾向(ジャンルの越境と融合)においてさえも、このことは同様である。映像と「歌」は、極めて相性が悪いようだ。
では、映像と「歌」との出会いなどという話題は、そもそも議論すべき問題ではないということだろうか。ここで「議論すべきではない」と話を打ち切ってもよいのだが、映像と「歌」が密接な出会いを果たしている実例が、そうはさせてくれない。その実例とは、アニメーションの領域である。ここで言う「アニメーション」とは、商業アニメのそれを指している。ゆえに、「恵比寿映像祭」の枠組みには全然相応しくないかもしれないが、アニメの領域では、映像と「歌」との重なり合いが、確かに豊かな成果を生んでいるのだ。
具体的な事例は枚挙に暇がないが、ここではひとつだけ、『マクロスF』(2008)を例にして検討してみたい。このアニメは、『超時空要塞マクロス』(1982〜83)に端を発する『マクロス』シリーズの最新作であるが、このシリーズは一貫して「歌」が主題になってきた。物語上において与えられた人類の危機が、「歌」によって回避されるのである。もちろん常識的に言えば、「歌」が具体的な危機を救うことはありえない。ゆえに、私の「歌」が世界を救う(セカイ系)などといった話の筋は、物語の構造としては荒唐無稽以上でも以下でもない。しかし、この荒唐無稽な物語に対して、私たちは特に違和感なく接している。先に映像と「歌」は相性が悪い、と言ったが、ここではまったく逆の事態が起こっているわけだ。この作品で提示される映像と「歌」の重なり合いを、違和感なく了解できるのは、その重なり合い対して、構造的な必然性が組み込まれているからにほかならない。 細かい分析はさておき、端的に言えば、『マクロスF』において「歌」は、情動装置として使用されている。物語の進行上、「歌」は、2人の「歌姫」によって歌われる。ここでの「歌」は、通常「挿入歌」などと呼ばれるような、物語の単なる添えものといったものではない。「歌姫」たちによって担われる「歌」は、実際に彼女らが歌っている姿が描かれている映像とシンクロし、さらには人類の危機をもたらす「敵」に対する、情動による抵抗として機能する。彼女らの「歌」が発する情動は、「敵」だけではなく「味方」の精神にまで影響を及ぼし、世界を正しい方向へと導く力になる。と、このように言葉で説明しただけでは、やはり「荒唐無稽」に過ぎないように聞こえるかもしれないが、このような無茶な筋書に対して作品そのものが観る者に説得力を与えていることには、理由がある。というのは、通常であれば、物語を語る映像に即して「歌」が事後的に添えられる、といったように「映像>歌」というヒエラルキーがあるのに対して、『マクロスF』においては、あたかも物語に先行して「歌」があって、映像は与件としての「歌」によって事後的に生成されているかのように見えるからである。つまりここでは、「歌」という情動が自律的に展開しているからこそ、映像によって語られる物語がいかに荒唐無稽、さらに言えばいかに胡散くさい話であろうとも、納得せざるを得ないリアリティが付与されるのである。
この映像=物語に対する、「歌」=情動の自律的先行という事態は、インターネット上でいかに「歌」が自己生成=自己産出されているのかを観察することによって確認できる。具体的には、『マクロスF』劇中で使用された楽曲(いや、先の文脈に即すならば、物語の生成に寄与した「歌」)が、ニコニコ動画のような場所で自己産出的に増殖しているといった事例である。それは、単に「歌」をそのままサイト上にアップロードしているものではなく、「歌」のパートを改めて自ら歌うような、いわゆる「歌ってみた」系のもののことだ。「歌ってみた」に限らず「~みた」系の事例については個別に検討すべきであろうが、ともあれここではそれらの「歌ってみ」られた「歌」が、どのように扱われているか。その扱われ方は、パロディとして、いわば「ネタ」的に扱われているものも少なからずあるが、ここで注目したいのは、その一方で、本気で(「ベタ」に)歌われているものも多いということである。それら「ベタ」に歌われた「歌ってみた」ものは、単に上手いカラオケと言ってしまえばそれまでだが、重要なのは、それらが単に上手いカラオケにすぎないにもかかわらず、それらのコンテンツにけっして少なくない再生数とコメントが付いていることは、一体何を意味するのか。それは、「歌」そのものが、それを聴く者に対して「歌ってみる」という情動を喚起するからであると言わなければ、説明がつかない。言い添えれば、『マクロスF』の場合は、「歌姫」がアイドル的歌手であるというキャラクター設定や、ウェルメイドな楽曲を量産する菅野よう子という作曲家の寄与に、そのような情動の喚起が由来するのではあるが、ともあれ、そのような自己産出が引き起こされるのは、「歌」という情動が自律的に展開していることには、異論はないだろう。ここでは、「歌」=情動が自律的にふるまい、映像=物語は「歌」を産出するための装飾以上でも以下でもないものとして機能するにすぎないのである。
勿論、このようにサブカルチャーの領域に属する対象である場合、映像を越えた他ジャンル(ここではつまり「歌」)への接近は、一言で「メディアミックス」という経営的戦略として語るべきかもしれないし、例えばアニメのような領域では『マクロスF』に限らず、このような事例は少なからず見つけられることであろう。ただ、ここで注意しておきたいのは、たとえアニメのような領域に属する作品であっても、そこでは、映像と「歌」というしばしば相性が悪い両者が、易々と、しかも構造的な必然性をもって結びついているということである。1927年のトーキー映画以来、映像と「歌」は、このような事例を除いて、互いに敬して遠ざけるかのように棲み分けてきたように思われる。映像に「歌」を探すとするならば、単なる連想やアナロジー、あるいは装飾にとどまらない、それらが互いに構造的因果性を持つような作品を構想することは可能であろうか。もし、そのような作品を発見することができるならば、その作品は、観る者に対して情動を激しく喚起させるような装置として、存在しているはずである。