岡崎乾二郎 / OKAZAKI Kenjiro
1955年生。造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。絵画、彫刻、建築などにおいて活動を展開。8mm映画『回想のヴィトゲンシュタイン』制作(1988)、ヴェニス・ビエンナーレ第8回建築展(日本館ディレクターおよび作家として参加、2002)、《I love my robots》(トリシャ・ブラウン・ダンス・カンパニーとの共同制作によるダンス作品、2007)なども手がける。著書=『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房、2001)。編著=『芸術の設計──見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社、2007)。共著=『漢字と建築』(INAX出版、2003)、『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005)など。
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Q1. あなたにとってもっとも忘れがたい映像はなんですか?
Q2. 忘れがたい映像について理由を教えて下さい
A. 国木田独歩の言葉に倣えば、忘れえぬ映像は、忘れてはならぬ映像ではない。価値判断とは無関係に目にとびこんでしまった映像、いわば、いつのまにか見てしまっていたが忘れることができないというものだろう。そして、これを語るのはむずかしい、言葉は、言葉という(眼とは別の)「お目」にかなうものしか、語りえないからである。
独歩の『忘れえぬ人々』にしても、こうした映像を言葉にするのが問題ではなく、言葉によって語られえなかったもの(がいかに言葉の背後に張り付いているか)を言葉にすることこそが、その小説家の課題でもあった。
と迂回したが、わたしにとって、忘れえぬ映像は、いわば言葉にして、とるに足らない(とするべき)映像なので語るに及ばない(語りたくない)。けれど恐れず告白すれば、それは、わたしの眼の中に飛ぶ小さな黒い虫たち(飛蚊症)である。つねにこの黒い小さな虫たちが眼の中に飛んでいることは悪夢以外の何物でもない。よって、それを忘れるよう、意識しないよう医師には奨められている(曰く、誰の眼の中にでもそれは飛んでいる)。
しかし、もちろんそれは忘れられない。何も描かれていないキャンバス、文字が埋まっていない(白紙?の)デスクトップの白く光る画面に必ず、その虫たちが姿を表す。白紙を言葉で埋めれば、それは消えると知っているが、それよりもわたしは自分の眼を閉じることをまず選ぶ。
Q3. あなたにとって「まだ見ぬ」映像とはなんですか?
A. 自分のいない死後の世界、と言われる。しかしもともと、われわれが生きている世界でわれわれが見ているのは、いつでも自分がいない世界(直接、自己の顔、全身を見ることはできない)である。生と死の世界を区分すれば、視覚から自己の姿が消えているのは、むしろ生の世界である。世界から自分の姿はいつも消えている。死後の世界だって、どうであるかわからないが、生と死の中間(なのか)に、幽体離脱という経験があって身体から抜け出た魂は、自分の姿を外から見るという。見たことがないが、見ても、たかが知れているとも思う。
一方で、自分にしか見えない映像というものもある。たとえば、まぶたの裏の映像であり、飛蚊症の虫たちの映像である。そして幻覚(自分の姿などというものも、かなりリアルな幻覚に違いないが、自分には眼の中に飛ぶ、かそけし虫たちのほうが、はるかに自分のリアルな姿に感じられる)。こうした映像があるからこそ、人は他人の頭の中、目玉の中に何が現象し、映っているのかを見たいと願う。それは叶わない願望だけれども、いつか見えるはずと確信して、人は絵画を描き、写真そして映画を撮ってきた。絵画や写真とは元来、こうして描かれ、写される対象(他人)の、幽体離脱こそを企てつづけていたにちがいない。他人の魂から、見た他人の身体の姿。世界から遊離した視点(魂)から、見た物質世界。