下道
僕は未だにデジタルと同時にフィルムも使っています。旅行中なんかはその場で写ったものをその時その場で見たくないという気持ちがあるんですね。そういうときは、フィルムで撮って、帰ってきて現像して、すでに自分のことではないような状態で再び出会いたいと思うことがある。デジタルの場合、撮りながら作品がかたちになった状態を想像しながら進行して行くので、手応えが全く違うかもしれません。両方に良い面と悪い面がある。
北澤
下道さん、分藤さん、お二人はいずれも、フィールドワーク的なアプローチで対象をとらえています。
分藤
現場に行って撮るという点では共通していますが、下道さんの場合は、移動することで見えてくるものを捉えようとしているのに対して、僕の場合は、滞在することで見えてくるものを捉えようとしていると言えるのではないかと思います。僕は、アフリカの熱帯雨林にある一つの集落に、のべ2年間ほど滞在しながら撮っていますから。
下道
その集落とはどういう出会いだったんですか?
分藤
最初は何も分からないので、先生や先輩たちと一緒に車に乗っていろいろな集落を見て回ったんです。調査や生活の条件を考えながら。そして、最後は直感で良さそうな集落を決めて、幸い今日まで同じ集落に通い続けています。
下道
テーマ自体はある程度先に決めてから?
分藤
ある程度決めていたんですが、現地に行ってから変わりました。やはり、決定的なのは現場での経験なんです。もともと僕は「人と自然との関係」について調べたいと思って行ったのですが、最初に泊めてもらった晩に、伝統的な音楽と踊りを披露されて、これはすごいと、コロッとテーマを替えてしまった(笑)。
下道
僕もどちらかというと自分が散歩したり旅をしたりする中で引っかかることが多い。《torii》のきっかけは、まず韓国に「掩体壕」という戦闘機の格納庫があるのを知って、そこに取材に行ったんです。韓国の風景の中での残り方は日本と少し違っていて、残すかモニュメントにするか揺れていた。震災の遺構もそうですがどのくらい残して行くか、壊すかの問題は、過去をどのように後世に伝えるかです。《戦争のかたち》では、東京の郊外に、弾痕と迷彩の跡が残っているふたつの給水塔がありました。今は、ひとつは保存されて公園になっていて、もうひとつは、野ざらしになっていました。で、ある日行ったら、野ざらしのほうは駐車場に変わったんです。そういう、ある建物が完全に「なくなって見えなくなるということによって見えたもの」に興味を持った。
毛利
戦争に対するこだわりがあるんですか? あからさまに政治的ではないにせよ。
下道
戦争に対するというよりは、見えにくくなったある時代に対して、目の前の風景の中でその時代も地層の様に同一線上に見えることを重要視しています。
毛利
少し現代美術の最近の流れを俯瞰すると、1990年代に入ってフィールドワークやエスノグラフィー(民俗誌)といった方法論が美術と文化人類学の双方のキーワードになって、両者が急接近しました。このことを分析して、美術批評家のハル・フォスターが「民族誌家(エスノグラファー)としてのアーティスト」(1995)という論文を書いています。もちろんこのタイトルは、哲学者ベンヤミンの「生産者としての作家」(1934)に掛けているんですが、ハル・フォスターによると、80年代から90年代にかけてアーティストの社会における役割が大きく変化した。とりわけ、アーティストが文化人類学者、民族誌家のようにフィールドワークを行い、ヴィデオや写真を使ってドキュメンテーションを行ったり、ワークショップを開催するようになる。シチュアシオニストの再評価などもこの傾向に含まれるでしょう。ハル・フォスター自身はある種のマルクス主義的な批判理論から出てきた人なので、こうした傾向に対して批判的です。つまり、民族誌家のアーティストは、単に何かを描写するだけ、結局フィールドを過度に魅了されるために、ともすると現状の追認に留まり、そのままそれを反映するだけになるのではないかというわけです。でも、私はもう少し民族誌家的なアプローチを肯定的にも捉えています。それは、すでに文化人類学の中でも実践されているように、多くのアーティストが批評性を持ちながら現状に介入したり、それを乗り越える作業をしていると思うのです。
下道さんの作品もそうですが、何かを調査して、民族誌的なことをしつつも、伝統的な民族誌家とは違う視点を提出する。と同時に、一方で民族誌家たちも、ある時期から批評性を意識するようになる。そのとき、フィールドワークやエスノグラフィーをめぐってパラダイムシフトが起きて、アートと文化人類学が交差したと思うんです。お二人の作品を見ても、フィールドワークや調査、民族誌や記述をめぐって多くの部分で重なると同時に差異があって、そこが興味深い。
分藤
映像人類学では70年代の半ばにデイヴィッド・マクドゥーガルという人が、それまでの客観的な記録を特権化する傾向を批判しました。当時は、カメラの向こう側にいる人たちと、カメラの手前にいる人類学者は別の世界におり、だからこそ学術的に価値のある映像が撮れるという認識が強かった。それに対してマクドゥーガルは、「参加」という概念を提示して、人類学的な映画(民族誌映画)は、もっと撮る側と撮られる側が相互に関係しながらつくられていくべきだと主張したのです。そして、90年代になって、デジタルヴィデオカメラが登場したことによって、現地の人々と人類学者が共同して映像を制作する手法が盛んになっています。
下道
やっぱりカメラで人や風景を撮って、それはもう主観な訳です。フィクションかノンフィクションかみたいなことも、どちらも信じられない状況。だからそうなった場合には、本当に仰ったとおりで、「人と関わりながら何かを導き出す」、そこの中で生まれてくることを意識する。例えば人を撮影の段階で向こうはもう撮られたことを知っている。一手目は自分が打っている。だからある程度、介入してしまっています。
分藤
2000年代に入って、映像を活用して現地の問題に取り組む「応用映像人類学」という分野が盛んになってきていて、そこでは「インターベンション」(干渉・介入)という言葉が
キーワードになっています。そもそも撮影という行為はshootという言葉が示すように、攻撃的な面があるわけです。関わりの中で撮っていくといっても、仰ったみたいに最初の一手はこちらが打つわけですよね。どこまで踏み込んでいいのかという判断は難しいけれど、そこが一番作家性の表れるところ、見せどころになると思います。たぶん最初の段階で怖じ気づいてしまうと、一時期の人類学のようなもので、 謝罪ありきのスタイルになってしまう。もちろん人類学が植民地主義的であるという批判は今日でも当たっているし、真摯に受けとめるべき課題であり続けているわけですが。
毛利
さっきの「文化は誰が書く権利があるのか」という問題と繋がりますよね。
分藤
ただ、批判を踏まえた上で、それでも書く、撮る。そのときの一手の打ち方が厳しく問われるようになっています。今日では、独自のやり方で現地と関わっている人類学者もたくさんいます。
毛利
人類学に限らず社会科学全般で、書くことが対象と関わらざるをえない実践であるという現実は、すごくはっきりしてきましたね。私自身を例に挙げれば、社会運動について書けば書かれた当事者たちがいるわけで、誉めても貶しても何か起きる。逆に言うと、何も影響を与えない研究に意味があるのか。活動をしている人たちが書かれることでエンパワーメントされるとか、何か相互反応が起らないとあまり意味がないという気がするんです。もちろんそれだけが目的ではないにしても。
アートでも90年代以降は、さっきの「エスノグラフィ」というのと同じくらい、「リレーショナル(関係的)」という概念がキーワードになった。キュレーター・理論家であるニコラ・ブリオーが提案する「関係性の美学」はその代表的な例ですよね。絵画や彫刻など物質的な作品をつくるのではなくて、むしろ作品におけるコミュニケーションやネットワークとか、関係性そのものを構築していくような、そういう姿勢が美術のパラダイムの中心になった。その過程で映像や写真というメディアが全面的に導入されてきたのでしょう。写真にしても映像にしても、それ自体もちろん作品ではありますが、場所性や関係性を組み立てていくものでもある。もちろんここには被写体と作者の関係だけではなくて、たとえば下道さんの話にあったように、写真を並べることによって生まれる関係性もあるわけですね。「アーティストはもう作品をつくらないんだ」と言いつつやはり何かをしているわけです。それが面白い。
下道
ただ、他者との関係といっても、例えばアーティストがデモをアクションとして行なった後にそれを展示すると、やっぱり違うものになってしまう。写真を展示したり、プラカードを山積みにしても「そういうことをした」という記録にしかならない。過去の行為の説明でしかなくなる。だからアーティストとしては、あるアクションを起こしてみんなの中に生まれるものを重要とするのか、あるいは結果がさらに再編集されたときに、他の人にまた違う影響を与えることを重要とするのか、それは大きく分かれるところでしょうね。自分の場合は、後の時代に見る人に対してどう伝わるかに興味がある。
毛利
自分が予期しなかったような見られ方をすることに対して、可能性を残しておきたいということですよね。
分藤
でもその可能性は、研究の場合は、誤解を生む可能性として排除される。それに対して、アートの場合は、例えば下道さんの作品でいうと、人が写っていないことによって見る側がなかば勝手に人の姿を作品の中に思い描く。そして、そのような創造的な誤解を排除するのではなく、むしろ喚起したり包摂しようとしたりする力がアート作品にはありますね。
毛利
人類学者も、実際にいろんな活動をしますよね。先住民の権利運動に関わったり、少数言語の保存活動に従事したり、自分のフィールドワークの人の留学の世話をしてみたり、果てはテレビや電化製品を買っていったりとか、現地の子どものための学校をつくるとか。人によってはそちらのほうがメインで、研究者なのにもはや論文を書いていない人もいる(笑)。でもそれら全部を含めて人類学の仕事と呼ぶべきなのかもしれません。映像を撮るという行為は、実はそうした役割と密接に結びついている。ヴィデオカメラを持っていけば単純に取材対象に触られますよね。お前には触らせないとは言えないだろうし、そうしたら一緒に撮ってみようとか、そういうインタラクションは日常的に起きるのは出発点でしょう。
もうひとつ「ドキュメンタリー映画」というジャンルがあります。これは今ではトークイヴェントとセットですよね。私が住んでいる東中野に「ポレポレ東中野」という映画館がありますが、ここではほとんど毎日のように監督たちのトークイヴェントが行われている。もちろん映画館としてはお客さんを呼ぶためのプロモーションだということなのでしょうが、昔からドキュメンタリー映画の上映の形式ってそういうものだった。政治に関わる作品だったら上映が終わった後に討論会をしましょうとか、映像は議論を媒介するツールだった。
分藤
日本のドキュメンタリー映画史においては、60年代から70年代にかけて激動する社会に即応して小川プロ(小川紳介監督が率いたドキュメンタリー集団)や青林舎(土本典昭監督)などが「運動」と呼ぶべき映画の制作と上映を展開した。ただ、それも80年代に社会運動全体がしぼんでいく中で姿を変えてゆきます。ドキュメンタリー映画の対象は集団から個人へと移り、さらに90年代のデジタルヴィデオカメラの登場によって、一段とプライヴェートなところにまなざしが向かうようになる。でも、2011年の震災以降、多くの人が改めて、あるいは初めて社会問題に向き合わざるをえなくなって、つくる側も見る側も社会性の高い映画のもとに集まって来て、語り合う状況が生じているように思えます。
北澤
ドキュメンタリー映画としては上映プログラムで、今年9月にヴェネチア映画祭に出品され、新たな境地を拓いたとして注目を集めている作品、ワン・ビン監督による、雲南省の精神病院を撮影したドキュメンタリー映画《収容病棟》をジャパン・プレミアムとして上映し、今回、ゲストを交えたトークも企画しています。
毛利
デジタル技術と機材の普及で映像を再生できる場所も増えてきた。昔は大学や労働組
合に公共空間としての役割があったんですが、それがいつしかなくなったしまった。でも最近になって、なんといってもプロジェクターが安くなりましたから、オルタナティヴ・スペースのようなところで、ばんばん簡単に映像の上映会ができるようになってきている。
分藤
デモなんかでも、以前と比べるといろんな人が集まってくるのが近年の傾向ですよね。いろんな立場の人がいろんなスタンスで参加してもよいという、それは新しい運動だと思います。
毛利
ある種の民主化は確実に進んでいますよね。みんなが写真も撮れるし映像も撮れる。公開しようと思ったらすぐにネットにアップできる。少なくともイメージを生産する敷居がものすごく下がったのは事実です。それまではアーティストや映像作家しか撮らなかったようなものが、とにかく氾濫しているわけですね。それに伴って、個々が相対的に埋没しているだけではなく、映像に違う役割が与えられ始めている気がする。
分藤
誰もが映像作品をつくりうる状況がある中で、僕の場合はアフリカの森の中にフィールドがあって、そこは僕くらいしか行かないところであるがゆえに創作が継続できているということがあります。それに対して下道さんは、他の多くの人たちと条件はあまり違わないわけですよね。そういう中でアーティストとして、独自性を出すためのポイントはどのようなところにあるのでしょうか。
下道
『戦争のかたち』(リトルモア、2005)という本を出しましたが、こういう素材に関心を持つ人は増えたんです。「戦争のかたち」というワードで検索すると、家の近所に戦争の跡があったから自分も撮りましたという写真がアップされている。自分がすごいカメラの腕を持っているわけではないことは分かっていたんですが、みんなびっくりするくらいうまいんです(笑)。だからカメラの腕で勝負するという気持ちははじめからなくて、どちらかというと、どのように並べるかとか、どういうカメラを選択するか、後はカメラを使わないという判断も含めて、どのようにそれを見つけてきて、持ってきて、編集して並べるか。個々の差が出てくるのはそういうところのやり方だと思います。
毛利
視点をちゃんと提出するのが重要ですよね。ひとつひとつ写真をきれいに撮るのは当たり前ということで。
下道
逆にいうと、それも状態に合ったクオリティにしないといけない。もしかすると写真が1点のほうがいいのではないかと考えるときもあるし、そんなに大きくなくて、むしろ画質が低いものでいいんじゃないかとか。僕が考えているのは、「そのもの」を見せつつ、それを世界と関係づけることなんです。そこで飛躍が生まれる。例えば歴史や世界の向こう側で起こっていることと繋がるかもしれない。そうやって繋がっている作品のほうが強度がある気がします。