「無名の人々の生きた記録」を読む

北澤
観客の見方の問題も遡上にのせたいのです。最近の世界の展覧会は、映像をぜんぶ見ようとしたら4、5時間かけないといけない場合があります。見せ方の工夫ももっと迫られてくると思います。ヴェネチア・ビエンナーレの軌跡を調べたら、80年代の終わりから90年代初めは、映像作品が全体でも2作品くらいなんです。でも今年の各国館の展示作品は、約半数が映像作品です。いろんな見せ方をつくる側も工夫しているから、3部作だったりマルチプロジェクションだったり、インスタレーションだったりします。それらを見てもらうのに一番よい環境をどのように創り出すべきかは大きな課題です。

分藤
本当に映像が氾濫していて、飽きられている、あるいは見ていられない状況があると思うんです。自分が作品をつくっている時に一番気にしていることは、「見ていられるかどうか」です。編集の過程で同じシーンを何十回と見る。それでも見ていられるかどうかという基準で制作しています。また、観客を飽きさせないようにするのではなく、飽きるか飽きないか という微妙な線を狙ってつくって いるつもりです。いろんな人と向き合うフィールドワークにおいて最も必要なセンスは根気強さです。じっと見る、じっと聞くことで初めて相手のことが分かってくる、自分のことも分かってくる。その感覚を伝えたいという思いもあります。近年の映像環境では伝わりにくいところですけど。

毛利
今の映像環境のひとつ特徴的なこととして、一般のテレビに市民が撮った映像がかなり使われるようにになってきている。事件が起きたときにテレビカメラがなくても、ほとんどの場合一般市民がiPhoneや携帯カメラで撮影しているし、それをアップするYouTubeのようなサービスもある。トゥルーやリアリティということに関していうと、解像度が低いほうが現場性がある。むしろあまりきれいだと、最初の下道さんのお話みたいに、CGで加工したんじゃないかと思われてしまったりする。何をもって人々が「リアル」だと感じるのか。そこは作家もかなり意識的に考えていますよね。

下道
そうですね。例えばiPhoneで旅を撮っていくのだけれど、それを最終的に16ミリのフィルムにして投影する、そうすると画像が少し粗かったり、速く動くとずれたりするんです。iPhoneっぽいのだけど同時に映画っぽくもある。そんな作品もありますね。シプリアン・ガイヤールだったかな。

分藤
でもそういうのも飽きられてしまう(笑)。

下道
これは個人的な感覚ですが、例えば時代やメディアに対する批判が作品の主軸になっているものは、たぶん古くなるのも速い。ただ、主軸がもっと違うところにある、見せたいものや驚かせたいものがそのメディアと離れたところにある場合は、次の時代に見てもメッセージは伝わることが多いと思う。例えば、デジタルに替わっていくときにかなりの写真家がデジタルに変化していくことに対して闘っていたけれど、でもその抵抗にどれくらいの根っこがあったのか。それは問われると思うんです。

北澤
写真家の森山大道さんは、8年くらい前に展覧会を企画させていただいた時点ではアンチデジタルでした。ところが今年の夏に刊行された写真集の記念のトークに行ったら、もうデジタルを玩具のように使いこなされていた。森山さんというとモノクロームのイメージがありますけど、すべてカラーでした。結局森山さんにとって、デジタルにとって替わっても自分の一番大事な部分が失われないということが分かったのではないかと感じたんです。その確固たるものがあるから、自由に生き生きと撮れるように思います。
北澤ひろみ
毛利
メディアの重要なところは、時空を超えられることですよね。アフリカで撮った映像も日本で見ることができるし、逆もできる。10年後も20年後も見られる。で、面白いかどうかということに関していうと、私はいつどこで見ても面白いユニヴァーサルな面白さがあるとは思わない。とはいえ一カ所でしか見て面白くないものは、きっとそれほど面白くないのだろうと思う。ある程度複数のところで見て意味が常に与えられる「トランスローカリティ」がメディアがそもそも持っている特質ですよね。
 さっきのアクティヴィズム的なことで言うと、記録写真がその場その場で持ちうる意味はもちろんあります。でも、もうちょっと引いて見て、他の場所、他の時間に持ってきたときにどう意味を持ちうるかという可能性がより面白いポイントだと思います。いずれにしてもそれぞれの現場すべてに立ち会うことは不可能だけど、われわれはメディアを媒介にして立ち会うことができている。本当に知りたければ現場に行け、と言うことかもしれないけど、みんながみんな行けるわけではないですから、そうすると現場から離れたところで見たわれわれが何を感じたかということが結局重要になる。

トゥルー(True)のゆくえ

分藤
「トゥルー・カラーズ」の「トゥルー」という言葉について、どう思われるか聞いてみたいです。「カラーズ」は納得しやすいのですが、「トゥルー」が付いていることで難しいというか、危ない面もある気がして。

毛利
私はまったくの相対主義者なので、「トゥルー」なんてそもそもないと思っています。たとえばイデオロギーという概念は、マルクス主義では「虚偽意識」と訳されています。本当はそうではないのにみんなが信じ込まされている、といった意味ですね。かつての批判的社会科学は、イデオロギー暴露、つまり「王様は裸だ」ということを暴いていく役割があった。それは、活字を中心とした文化が主流で、論理的でリニアにものを考えていた時代です。でも、価値観がここまで多様化し、相対化してしまうと、「本当はこうなんだよ」とイデオロギー暴露をした瞬間に、その言説が新しいイデオロギーになってしまう……そんなイタチごっこの時代に入っています。
活字的な言語の知識をベースにした真実と虚偽みたいな二項対立の問題構成を、もう少し柔らかくする非言語的な領域があるはずで、それは映像や音とか感情に直接関わってくるようなものではないか。それは活字的な言語と違って、はっきりとしたかたちで意味が分節化されるわけではない。両義的だし、分藤さんの《cassette tape》も、結局こういう意味ですとは決して言い切れない。下道さんの作品も、全部言葉で説明できればそもそも言葉で書けばいいだけだし、そうではないから写真という表現で表される。そういう意味で「トゥルー・カラーズ」とは、それまでの真偽関係とは違うアプローチで現状の見方を批判する世界だと思う。
cassette tape
北澤
両方の意味があると思います。本質を見ようという意味もあれば、そんな確固たるものが本当にあるのかと疑問を投げかける意味もある。だからいろんな角度から表現している作品が含まれています。さらに、ある時代のイデオロギーだったものが崩れていったときに、大義名分のようになっていた「本当の正しさ」がなんだったのか、それを問い直してみることがうながされます。

分藤
僕の作品なんて、おじさんが家の中でカセットテープを修繕しているだけですから。本当に、それだけなんですけど、それだけに見る人は、「つまらないとおもしろいの間」を揺れながら見ることになると思います。そして、気長に見てもらえれば、自分とアフリカの森に暮らす人との間に、違うところや同じところを少しずつ見いだしてもらえるのではないかと思います。仮に僕の作品が、僕たちと彼らとの違いを強調するような作品であれば、それなりに面白がってはもらえると思うのですが、「やっぱり違うよね」という印象だけが残ってしまいかねません。そうなると、他人事になってしまって、彼らについても自分たちについても考えるきっかけが得られません。やはり、なんということはない光景を退屈しながらでも見つめ続ける体験が必要なのではないかと思うのです。僕は、見続けているとモヤモヤする、でもジワジワくるような作品をつくり続けてゆきたいと思っています。下道さんの《bridge》という作品も、写っているのは用水路に架かっているただの板ですよね。それをひとつだけ見せられてもぴんとこないと思うのだけど、いろんなものを次々と見せられることで、次第に魅惑的に感じられるようになってくる。

下道
あれを見た人から「感動しました」と言われたときに、そうかなあ……と違和感を覚えた(笑)。でもその人が何か誤読しているとしても、そういうことが起こりうることはぜんぜんいいし、もし作品にメッセージを込めたとして、そのまま感想で述べられることはそこまで面白いことではない。誤読の余白の必要性でしょうか。

毛利
《bridge》は私も面白かったけど、世界中の全員が面白いと思うかどうかというと、たぶんそうではないでしょう。むしろ、これを面白がれる人をどれだけ探すかという闘いのような気がするんですよね。日本人ならみんな面白がるとか、台湾人ならみんな面白がるとかではなくて、日本人にも台湾人にもこれを面白いと思う人が確実に何人かいて、感動したりする人がいる。楽しみはそういういろんな反応にどれだけ出会えるかということかもしれませんね。

分藤
文化相対主義という考え方があります。簡単に言うと「文化というものは様々で、それぞれである」ということなんですが、「それぞれだ」というところに囚われてしまうと、だから「分かり合えないし、そんなもんなんだ」ということになってしまう。言い換えると、私は私、あなたはあなたということで、両者の関係を絶ってしまうことになります。これは文化人類学の一番大事なポイントだと思うのですが、文化が違う者どうし、詰まるところは分かり 合えない者どうしが、にもかかわらず分かり合おうとする。そうすると多少なりとも分かってくるんですね。不確かなんですけど。でも、そうやってお互いに歩み寄ることで人や物事が変化する。アートでも、誰にも分かってもらえなくていいとか、誰にでも分かってほしいとか、その両極は間違っていて、その間でどれだけの人に歩み寄ってもらえるかということが問われているのではないでしょうか。その上で大切なのはユーモアの精神だと思います。

2013年10月21日 東京都写真美術館にて収録
撮影:中村光博