色には、暖かい色、冷たい色、幸せな色、悲しい色、恐ろしい色、優しい色、などなど、個人それぞれがイメージするものがある。つまり、とらえ方は人によって違うから、人はそれぞれ見ている色が違うのではないかと思うことがある。
極端にいえば、自分には紫色に見えているものが、他人にはオレンジに見えていたりするのではないか? たまにこんなことを思うことがある。だから、実際のところ、他人と色を共有できていないのではないか? こんなふうにも思ったりしてしまう。
  流行の色、時代遅れになってしまった色、色にもいろいろあるけれど、これらはあきらかに、策略によって作られたイメージであって、人間が色のイメージをこじつけたものである。
自然の色に関してもこのようなことがいえる。山に行けば緑だし、空を見上げれば白い雲に青空、海は青い、単純に色をわければこうなってしまうけれども、山の緑でも、人それぞれ見方は変わっているし、イメージも違うのである。
つまり色は、その人が生きてきた経験や、出会ったものによって変化したりして、心に通じてくるものなのではないだろうか。
わたしは、他人と色が共有できないのかもしれないと考えたりもするが、それは決して切ないことではない。
すべてを画一化することによって、物事はスムーズに進むのかもしれないけれど、ふん詰まったり、穴に落ちたりするのも人生である。穴に落ちて、見上げた空は、もっと青いかもしれない。そして心に染み込む色になるかもしれない。
だから映像や映画、写真を、他人と共有したとしても、感想や意見が違うのはあたりまえなのである。またそれらは時代とともに、そのときの色や雰囲気を写しとっているのでもあるが、時が経てば、そのイメージも変わってくるのである。しかし、単純に、古めかしいとか、ダサいとか、時代遅れだ、などと思ってしまうのは、つまらないのだった。
わたし自身は、過去のものを見たりすると、なんだこりゃ? といった驚きの方が大きかったりする。
未来を予想した映像はあるけれども、実際の未来を写したものは、この世に存在しないのである。あたりまえのことなのだが、そのような映像は、タイムマシーンでも発明されないかぎり無理なのである。
けれどもわたしは、過去の映像を見て、なんだか変な気持ちになり、未来を感じることがある。とくに自分の生まれた頃、1970年あたりの映像や映画を見て、現在と比べると、変化がありすぎて、そのころの風景は影も形もなくなってしまっていたりする。しかしそこに、現在とまったく同じものがそこにあったりすると、現在と過去と未来が一気につながってしまうような感覚にとらわれる。
以前、1970年あたりの日本映画を観ていると新宿の街が出てきた。そこに映る景色は、現在とまったく違うものだった。高層ビルは建設中で、駅も建物も低くてボロいし、歩いている人間も時代を感じさせるような格好をしていた。しかし、その映像の中に、現在でもある八百屋の看板が映っていたとき、わたしは、これは過去の風景ではなく、未来なのではないかと思えてきてしまった。そして、なんだか、わけがわからなくなってきたのである。
その気持ちは、とても新鮮だった。そこは確かに知っている場所なのだけれども、まったく知らない場所にも思えてきて、映像を観ている自分自身もどこにいるのだかわからなくなってきてしまったのである。
街は色あせていき、建物は取り壊されて、新しいものに変わっていく。そして過去がどんどんなくなっていってしまう。これは仕方がないことなのだが、過去を想うとき、ノスタルジックにならずに、過去の記録と現在をつなげると、そこには、未来が見えてくるのであった。
色あせていくというのは、時代を感じさせ、過去を感じさせるのである。しかし現在あるものも、これから色があせていくのだ。だからそこに未来を感じることもできるのである。
それにくわえて、自分の感情も変化していくので、いま現在、信じているものや、色なんて、決して永遠のものではないのである。自分が、この先の人生を歩んでいくのと同時に、色も寄り添って変化していく。人間が老いていくのと、色あせていくのは、同じなのである。そして、老いや色あせることは、決して負のイメージではなく、そこに、力強さや美しさを感じとることができる。
このようにして、街の色、自然の色を、映像の中の色を感じていると、変わらぬものの美しさもあるけれど、変わっていくものにも美しさもあるのだと思えてくるのだった。
けれども、なるべくなら画一化されるような変化は好まない。画一化されると、そこに色はなくなってしまうのである。つまり街の片隅に残っていた八百屋の看板のように、色あせながら、未来につないでいく過去もあったりもするのだ。そして本当の色とは、あせていってからこそ、にじみ出てくるものなのかもしれない。