「脳が映像を入力しているのだろうか。それとも、心が映像を解釈しているのだろうか。」──世の中に、脳と心とは同一だと信じている人たちは少なくない。彼らは、マスコミで活躍している脳科学者が、やがてすべての心の謎を解いてくれると期待している。彼らからすれば、こんな問いかけなど愚問ということになるだろう。
だが本当は、脳と心とは全然ちがうものなのだ。脳とは、白っぽいブヨブヨの小さな塊である。仮に次の瞬間、私の頭蓋骨が割れてしまえば、どろっと流れだしてくるちっぽけな存在、それが脳に他ならない。一方、つい先刻まで私をつつんでいた世界像が心というものだ。心とは、さまざまな色彩と音響、そして、それらを織りあげる記憶と何本かの思考の糸からできあがっている、時空イマージュの連なりなのである。
もし、脳と心を記述しようとすれば、文体はまったく異なってくる。脳は三人称で客観的・公的に記述されるが、心は一人称で主観的・私的に記述されることになる。強引に脳から心を説明しようとすれば、私的な一人称記述はすべて、非科学的で説得力のない戯れ言として排除されてしまう。色彩も音響も、さらに思考や記憶さえも、客観的記述の次元に還元され、定量的議論の対象になるはずだ。
脳から心を説明する挑戦が無意味だというつもりはない。ただ、そこで抜け落ちるものが多いことを強調したいだけなのである。いわゆるクオリア(感覚質)はどうなるのか。一回性のある個人的体験の重みはどこへ行ってしまうのか。そもそも、私が眺めている空の「青」と、あなたが眺めている「青」が同一だという保証はどこにもない。いくら青色の波長を計測し、脳に計測器具を装着したところで、この謎をとくことは絶対にできないのである。
これは、古典的な哲学的問題である「心身問題」と関わっている。心をもつロボットを創れるか、という問いはその具体例だ。科学者が脳の活動をいろいろ計測し、データをまとめあげてロボットに入力すれば、百年後に「脳もどきの存在」を制作することは可能かもしれない。だが、それで「心」を創ったというのは誤りである。
一生懸命、私があなたに言葉で語りかけても、絵を描いてみせても、それで情報の意味がコンピュータ間通信のように伝わるわけではない。私の心とあなたの心のあいだに横たわる深く暗いギャップを凝視するのは、思索者の責務である。
とはいえ、「何か」を伝えることができる。
そうでなければ、誰も映画をみて涙を流したりしないだろう。本来伝わらない他者同士のあいだで、いかにして、「何か」が伝わるのか。
その謎をさぐるのが情報学だ。アプローチはいろいろあるが、ここでは「他者に語りかける欲望」「他者とつながりたい本能」に光をあててみよう。これはおそらく、群れをつくって生きるホモサピエンスに共通のものである。またそれは日記の原動力ともいえないか。
日記の歴史は古い。土佐日記。蜻蛉日記。和泉式部日記……。数年前からブログが大流行なのは周知の通りだ。われわれはいったいなぜ、日記を書きたくなるのだろうか。日記が論文や報告書のような三人称記述でないのは当然だが、単なる個人的感想をつづった一人称記述とは少し違うような気がする。それは二人称的な記述、つまり暗黙のうちに、私とあなたとの対話を予想した文体ではないかと思うのだ。でなければ、備忘録のように一人でしまっておけばよいわけで、わざわざ外部に発表などしないだろう。
ただし、ここでいう「あなた」とは、隣家の誰かさんといった具体的な存在ではない。特定の誰かに、自分の無防備な内面をさらけ出すのはためらわれる。日記で語りかける「あなた」はもっと抽象的で神秘的な存在に他ならない。だからこそ自分の心の奥をわかってくれると期待できるのである。
ブログが流行するのはこのためだ。それは私的なものでありながら、どこか公的なものでもある。不特定多数の読み手の顔は、ネット空間のなかに抽象的に拡散している。その神秘的な読み手に語りかけることは、同時に自分自身に語りかけることでもある。日記の書き手なら誰でも多かれ少なかれ理解していることだが、日記をつづるのは自分探しの旅に他ならない。抽象的な距離から、自分という、かけがえのない一回性的な存在のありようを照らし出してみたいというわけだ。
だが、一回性的な、私秘的な存在のありようを語ろうとするとき、「言葉」が立ちはだかる。なぜなら本来、言葉とは、一人称的・主観的なものではない。むしろそれは社会的・公的なものであり、他者の間の心のギャップを乗りこえる権力的ツールともいえるだろう。そこで詩人や小説家は苦闘することになる。
では映像日記はどうだろうか。映像日記の観衆は何を感じ、何をつかむのか。
映像は言葉よりも具体的な存在である。あえて言えば、抽象度が低いといえるかもしれない。たとえば、青色を文字で書くときは「青」「蒼」「碧」などと区分するのがせいぜいだが、スクリーン上ならはるかに多様な、微妙な青色の色調を映しだすことができる。とすれば、少々あらっぽい議論になるが、映像日記は、言葉による日記より、ある意味で一人称記述に近いとさえ言えるかもしれない。
私は空をながめる。そして、空の色調というクオリアを記憶にきざみこむ。そしてまたあるとき、スクリーンに映る空を見る。その空の色は、私固有の記憶とまざりあい、私のなかで主観的な心象風景をつくりあげる。そして、当然ながらまた、そのスクリーンの空は、映像作家の独特の心象風景につながっているはずだ。こうしてそこに、映像作家と私とのあいだの、二人称的な対話が発生する。
だから一般的にいえば、映像作品はその萌芽状態では、映像作家の心という自己創出システム(Autopoietic System)のいわば痕跡だ。と同時に、鑑賞者の心を新たに更新していく揺りかごでもある。つまり、作家と鑑賞者の心が交錯する接点にあるのが映像作品に他ならない。そういう個別の二人称的な対話の連続が、やがて複雑な意味の網目を形成しつつ、公的な三人称的存在としての映像作品に結実していくのである。
むろん、何らかの「文法」と「語彙」をもつ以上、映像を言語記号的な作品とみなすこともできるだろう。だが、そういう静的な記号論的分析はすでに陳腐なものとなった。とりわけ、共時的視点から三人称で記述される、客観的な映像の議論は避けなくてはならない。
自分だけにしかわからないクオリアに彩られた、一人称的映像。それが映像的対話という舞台に引きずりだされる。するとそこに、多様なギャップが露呈するとともに、集団的なコミュニケーションの交錯がおこなわれる。この動的なプロセスを介して、作家にとって、また鑑賞者にとって、やがて否応なく自己の崩壊と再生がおきてしまうだろう。
大切なことは、この崩壊と再生のプロセスが、いわゆる「自己のアイデンティティの確立」といった通俗的な文脈に回収されないようにすることだ。
確かに前述のように、映像日記を、一種の自分探しの旅として捉えることは可能ではある。しかし、伝統的な個人主体の概念はすでに、記号論的分析によって批判されつくしたはずではないのか。
真に衝撃的な映像であれば、それは、作家の心と鑑賞者の心のあいだのギャップをのり超えてしまうだろう。そこで「個人」という静的存在のつまらなさが露呈してしまう。個人的な天才という概念は、近代西欧精神がつくりだした幻想ともいえる。むしろ、今世紀が向かうのは、圧倒的なイメージの奔流のなかに生命的個体が溶けていく方向ではないのだろうか。そんなヒリヒリする予感とともに、身体を刺すような映像作品を眺めたい。