Yebizo ラウンドテーブル season.01 オルタナティヴ・ヴィジョンズ―映像による知覚と経験

イントロダクション

岡村恵子

これより恵比寿映像祭ラウンドテーブル「映像の生態学」の最終回、総合討議「歌をさがして」を始めてまいります。今日はどうぞ最後までよろしくお願いいたします。第2回恵比寿映像祭では、新たな試みとして、ここにお集りの映像、視覚、芸術文化の研究者、クリエイター5人による討議を行なってまいりました。本日はその3回めとなり、これまでの2回の議論はwebサイトでお読みいただくことができますので、是非ご訪問ください。 本日の幕を開けていただくのは、「映像の生態学」という議論の大きなテーブルを用意いただいた柳澤田実さんです。それではよろしくお願いします。

■ 「映像の生態学」の射程
柳澤田実
皆様、今日はご多用のなかお集まりいただき、まことにありがとうございます。最初にごく簡単に、私たちがどのような前提を通して議論しているか、これまでの2回の議論から紹介いたします。
いま投影している映像は、2回めの議論のなかで触れたものですが、軍隊蟻が自分たちの生存のために、洪水に襲われたときに互いに組み合って船のような組織をつくり、延命していくというものです[fig.1]。


[fig.1]軍隊蟻の生態(YouTubeより)

このことが今日の議論とどのようなかたちでかかわっていくのだろうかということを、いまからご説明したいと思います。
私たち5名はそれぞれ立場や関心の細部は異なるかもしれませんが、「映像の生態学」の名の通り、「生態学」というキーワードを共有しています。以下に共有していると思われる4つの内容を列挙します。

❖ さまざまな営為を生存における意味において問い直すこと
これは文字通りのことです。要するに、あえて「生態学」と言うのは、これまでの既存の美学、美術史、批評で問題とされていることと少し違ったことをやってみようということで、ヒトの生き物としての生態・生存活動という文脈から映像作品、ひいては映像というメディアそのものを問い直して考えてみようということです。

❖ 自然と人工物、人間とそれ以外の生き物とを地続きに捉えていくこと
これは、人間による制作物・人工物だけを特権化すること、あるいは、芸術とは理性的動物である人間が頭のなかで考えていることを表現したものだという理解を変えていこうという立場であると考えています。

❖ 意識化されていない領域(知覚・無意識)の可能性を採掘する
のちほど個々のプレゼンテーションで短いながら映像をお見せして話すことになっていますが、そこではおおむね意識化されていない領域の可能性を示す映像が取り上げられることになると思います。

❖ 意識化されていない領域ですでに実現している超個体性に可能性を見出す
ではその意識化されていない領域で、一体何が実現しているのかといえば、これまでの私たちの議論においては、個体の意識を超えた生き物の「超個体性」が発見されてきました。「超個体」とは、蟻や蜂など、多数の個体から形成され、まるでひとつの個体であるかのように振る舞う生物の集団を意味します。さきほどの軍隊蟻の映像は、まさに生き物の「超個体性」の典型例でしたが、同様の現象が人間の営為にも見出されるのではないか。この問題については、のちほど平倉さんが挙げられる蜘蛛の話からも示唆を受けるでしょう。

以上を深化させる意味でも、これまでの2回の議論で交わされたキーワードをご紹介したいと思います。
◉ 生態学的なアプローチ
◉ 探索的身体
◉ 行為の誘発性
◉ 知覚レベル=無意識レベルへの介入可能性

これらのキーワードは、J・J・ギブソンによる生態心理学に関係していますが、このラウンドテーブルを構成する人間の多くが、ギブソンやE・リードらによるアプローチ方法を芸術の分析に応用できないか、ということを考えています。「探索的身体」とは、「知覚 perception」において、環境の意味を探索している身体を意味しますが、1回めのラウンドテーブルにおける私のプレゼンテーションでは、この「探索的身体」に注目し、デヴィッド・リンチの映像作品を分析しました。また、これまでの議論においては、映像が直接私たちの知覚に働きかけることにより、なんらかの行為を誘発していく、情動を誘発していくということにも注目し、映像を分析していくことの可能性についても討議を行ないました。このように行為を無意識の領域で誘発していく映像の可能性を考えることは、映像メディアの根本的な問題にほかなりません。

◉ ヒトが生きられる密度・解像度
それでは果たして行為を誘発していく映像の密度とはどのようなものなのでしょうか。この問題については、むしろ解像度が低いほど何か私の情動行為を強く喚起するのではないかという議論が、2回めの榑沼さんのプレゼンテーションを中心になされました。

◉ 精神の閉塞と「身体=精神」の拡張可能性
さきの超個体性とも関わりますが、さまざまな映像作品は、身体の知覚によって人間の境界が拡張していく可能性と共に、それとは逆方向の人間の意識がつくりあげていく閉塞をともに示唆しているのではないでしょうか。たとえば先にも述べたようにリンチの作品を「探索的身体」という観点から分析すると、むしろ縮減する身体によって示される精神の閉塞が露わになりました。また身体・精神の拡張可能性に関しては、平倉さんがエイゼンシュタインや蜘蛛、蜂の映像を用いながら示唆してくれました。

◉ 超個体への生成変化/確定記述以前の超個体性
◉ 触れえない他者の生成変化を見届ける第三者
生成変化については、概念としてはジル・ドゥルーズによるものが有名ですが、私たちが知らないうちに超個体的なものに生成変化しているという事実を見届ける第三者として、映像を撮る人間や、映像作品を観る人間がいるのではないでしょうか。この問題については、大橋さんがジョージ・バークリーを引きながら行なった、近世の知覚論についてのプレゼンテーションで提起してくださいました。

最後になりますが、私がこのラウンドテーブルを始めるにあたって提案したのは、知覚からエチカを考えること、知覚に基づいて制作されるアートこそが実現しうる倫理について探求できないか、ということでした。もともと、芸術と倫理は相性の悪い概念です。しかし、こうしたフレームをあえて設けてみることで、単に規範や理念として立てられる倫理ではない、私たちが芸術や映像作品によって無意識的に、意識以前のレベルで受容している倫理性というものが採掘できるのではないかと考えてのことでした。このアート、とりわけ映像と倫理というプロブレマティクが、これまでの2回のラウンドテーブルの議論の基底に流れています。

以上でざっとこれまでの討議の経緯と概要をお話したことになりますが、一足飛びでしたので、早速具体的なお話に移っていきたいと思います。今日は、ひとりずつ簡単なプレゼンテーションを行なったうえで、つづく議論でさらに成果を得ることができればと思っています。

イントロダクション(恵比寿映像祭ディレクター岡村恵子、モデレーター柳澤田実)

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