ところで、このセイレーンの神話を独自に解釈することで、新たに現代によみがえらせたのは、周知のように、音楽学者でもあったアドルノがホルクハイマーとともに著わした『啓蒙の弁証法』である。フランクフルト学派の2人の哲学者は、セイレーンの誘惑に打ち勝った英雄オデュッセウスの物語を、近代的で合理的な主体の確立という観点から読み替えたのであった。いわく、「自我が、つまり人間の自己同一的、目的志向的、男性的性格が、創り出されるまでには、人間は恐るべき試練に立ち向かわなければならなかった」、と★2。
だが、この読みは、そのあからさまなジェンダー・バイアスを差し引くとしても、いささか強引に神話を近代に引き寄せすぎているように、わたしには思われる。言うまでもなく、2人の哲学者が大前提とする主体や自我の「自己同一性」は、ホメロスとはまったく無縁のものだろう。セイレーンとオデュッセウスの対立は、アドルノらにとって、自然と理性、純然たる声と純然たる意味の対立に対応するものとされるが、この二項対立もまた叙事詩人の預かり知らないものであるに違いない。
ホメロスにおいてのみならず、広く歌一般においても、声の抗しがたい魅力は語りの魅力と密接に結びついているはずなのだが、2人の啓蒙の哲学者にとって、その享受は断固として抑圧されるべきものとみなされるのである。しかしながら、「歌う」(ラテン語の「カントー」)とは本来また、「呪いをかける、魔法にかける」(「インカントー」)ことにほかならないはずである。にもかかわらず、2人がこれを拒絶したとすれば、それは、時代がナチズムの「歌」に酔い痴れていたからである。『啓蒙の弁証法』が執筆されたのは、1939年から44年にかけてのことであった。歌声の魔力は、排他的で自己中心的な偽りの連帯を召喚しかねないのだ。とするならば、わたしたちにはいかなる享受が許されているのか。ムーサとセイレーンのあいだで、歌はいかにその可能性を見出すことができるのか。
ところで、アドルノとホルクハイマーが大前提とした主体の同一性や固有性というお題目こそが、むしろ、排他的共同性への格好の引き金になっていると考えることは許されよう。つまり、ロベルト・エスポジト風に言うならば、わたしの同一性という発想は、他者を排除したわれわれの同一性(仲間意識)へとそっくりと複数化して重なりあう危険性をいつも孕んでいる、ということである(『近代政治の脱構築──共同体・免疫・生政治』[拙訳、講談社、2009])。セイレーンを拒絶することとセイレーンに溺れることとは、実は同じコインの裏表にほかならいのだ。
ここで、2人の哲学者が忌避した、意味以前の純然たる声としてのセイレーンの歌声にもういちど立ち返ろう。いみじくも2人はそれを、「過ぎ去ったものの中へ自失すること」、つまり幼年期への「誘い」になぞらえているのだが、声と幼年期(イン—ファンティア)について鋭い考察を展開している現代の思想家といえば、アガンベン(『幼児期と歴史──経験の破壊と歴史の起源』[上村忠男訳、岩波書店、2007])とアドリアナ・カヴァレーロ(『A più voci. Filosofia dell'espressione vocale(より複数の声に)』[2003])を措いてほかにはいない。幼児期のうちにこそ、声が言語となるポテンシャルが宿っているのであり、産声がまさにそうであるように、つながりを呼び出すこの声は、純然たる声による伝達それ自体をのぞいて、ほかに伝達するべきものを何も持たない。声が意味するのは、まさしくこの関係性への呼びかけそのものなのだ。
とするならば、セイレーンを強引に黙らせてはいけない。セイレーンを抹殺してはならない。ムーサとセイレーンとに引き裂かれた歌、だがその裂け目にこそ、両者の閾のうちにこそ、歌の可能性が、そして歌の魅力が潜んでいるのではないだろうか。