展示されることで映像はどのように経験されるのか。映像とは何かという根源的な問いから始まった恵比寿映像祭は、この問題をつねに意識しているように思われる。「歌をさがして」という第2回の総合テーマは、こうした経験値としての映像という側面を照射している。ここで「歌」とは広く、音楽・詩・言葉を含み、さらに歌にまつわる個人的あるいは集団的な記憶や、歴史・物語に訴えかける力も意識されている。加えて歌により喚起される抒情性あるいは心的イメージ、また歌うことの身体性といった問題も想定されよう。こうした歌をめぐるさまざまな思考には、映像が展示されることによって生じる効果、あるいはこれを見るという経験と、何らかの類似性がある。この「歌」と「映像」というテーマが、展覧会の場でどのように提示されていたかを見ていきたい。

第2回恵比寿映像祭

入り口で照らし出される「歌をさがして」という文字。続いて展覧会で最初に目にするのは映像ではなく一枚のレコードだ。鑑賞者は、多少戸惑いを覚えるかもしれない。同じ歌を記録するメディアであっても、これが歌詞を書いたものだとか楽譜であれば、見る者はその場で何がしかの歌を再生しうる。あるいはせめてレコードのジャケットでもあれば、そこからある調べが思い浮かぶかもしれない。しかし、剥き出しのレコードは、見られるだけのオブジェと化して、一切の音の再生を拒んでいる。歌がそこに刻まれているとわかっていても、何も聴こえてはこないのだ。

第2回恵比寿映像祭

しかしここで、映像と歌とのある共通項に気づかされる。レコードに針を落とすように、映像もそれが投影されることによって初めて経験として成立する。つまり再生装置とそれを鑑賞する人が揃ってはじめて「歌」や「映像」が現われることが実感される。加えて、歌において、実は視覚がさまざまなレヴェルで関わっていることがわかる。それは歌詞、楽譜といったノーテーションに始まり、さらには歌から喚起される心象風景まで幅広い。ある調べが単なる音の羅列ではなく「歌」と認識されるときには、これを聴く人のなかに何らかの心的イメージがもたらされているはずである。「歌」をこのように捉えながら会場を一巡し個々の作品を見ていくと、展覧会というメディアが、個々の映像を「歌わせる」場として機能するよう配慮されていることに気づく。ただ単に複数の映像を囲い込み見せるのではなく、見る者に何らかの感情を喚起させ、共に歌わせること。そのように映像に「歌をさがして」いくことが求められているように思われた。

具体的に展示を見ていこう。入り口から薄暗い会場内へ足を進めると、その歩調に合わせるかのように歩む人影が映る。このフィオナ・タンの《ダウンサイド・アップ》(2002)に思わず足を止め見入ってしまうのは、ひとつには私たちそれぞれに自分の足元に伸びる影を見つめた経験があるからだろう。そのとき私という主体は、影を見つめる眼が宿る身体と、その写し身である影との間を揺れ動く。こうした主客が逆転する感覚が、路上に映る人影を上下に反転させたタンの映像で呼び覚まされる。加えて、展覧会を巡る私たち鑑賞者の身振りが、ゆっくりと歩みを進める映像と重ね合わされ、ごく自然に密度の高い映像経験へと導かれていく。映像祭全体へと誘う、見事な導入部分である。この展示の導線は、続くアンリ・カルティエ=ブレッソンの《サン・ラザール駅裏、フランス》(1932)や《イエール、フランス》(1932)といった写真で補強される。軽やかなリズムを刻むフェンス、階段といった構築物による構図と、水溜りを飛び越えようとする、あるいは自転車で疾走する人物の身振りとが呼応し、この写真を極めて動的なものにしている。この動画性は、通路のようにも思えるスペースに並べられることで増幅され、写真がひとつの映像として立ち現われる仕掛けとなっている。

このように鑑賞者と映像との身体的なコンタクトをうまく展示の空間構成に取り入れたことが、映像を「歌わせる」ことに成功したひとつの要因であろう。映像祭という展示の場は、映画館のように囲い込まれた場所での強制的な鑑賞とも、自宅のテレビもしくはモニター画面での没入的な鑑賞とも異なる。不特定多数に開かれつつ、鑑賞者の積極的な参入を誘発する仕掛けが必要となる。今回の展示では、一つひとつの映像の展示において、部屋の大きさや照明の明るさに強弱をつけ、また隣り合う作品の音にも配慮することで、緩急のついた導線が達成されていた。

あるいは鑑賞者の心的イメージだけが、その場に現われる唯一の映像であるような作品もあった。生西康典ほかによる《おかえりなさい、うた Dusty Voices, Sound of Stars》(2010)はさまざまな歌い手による幾つかの歌・詩・台詞といった音のインスタレーションである。ひときわ大きな空間を満たすのは、スピーカーと、時に明滅する照明、そして矩形に並べられた白い長椅子だけである。鑑賞者は腰かけたり、床に座り込んだり、壁に寄り掛かったり、あるいはゆっくり歩きまわったりと、思い思いの姿勢で部屋の中にたたずむ。もちろん同じ歌を聴いても、各自が心に思い描くイメージはさまざまであろう。と同時に、ここで思い描いたイメージを想起しようとしたときには、そうした同床異夢の場自体、すなわち同じ歌に耳を傾けていた人々と自分との距離といった空間そのものが、混然となってひとつの像を結ぶのではないだろうか。

第2回恵比寿映像祭

個々の映像は、経験されることで「歌」となり、心のなかにイメージを奏でる。映像祭のその一回性の場に立ち会えたことが、ひとつの心的イメージとなって記憶される。10日間という短い間だからこそ、その印象が強く心に刻まれるように思う。

最後にこの展覧会会場での歌体験を彷彿させてくれるウェブサイトについて触れておきたい。トップページには楽譜のような文字列が並ぶ。そして、何か懐かしさを感じさせる、ゆったりとした旋律が奏でられる。楽譜のように見えたのは、本展覧会に参加した人々の名前のアルファベットをある方式で5音に振り分け変換したもので、それをもとに演奏されるのがこの旋律だという。つまりほぼランダムに音が爪弾かれているのだが、ここに私たちは「歌」を聴き取るだろう。それもどこか懐かしいような歌を。これはこの5音が、古今東西、人々によって歌い継がれた歌のコードに重なり合うことに拠る。歌の原初の5つの音と、展覧会を織りなす人々の存在を示す名とが、共鳴することで奏でられる歌。やはり、そうした歌は、心に何らかのイメージを呼び起こすのだということをここで再確認できるように思う。