夕焼小焼で 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで 皆かえろ
烏と一緒に 帰りましょう
子供が帰った 後からは
円い大きな お月さま
小鳥が夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星
(「夕焼小焼」作詞:中村雨紅、作曲:草川信)
夕焼けの歌なのに、寝覚の床の朝の光の中で、この歌をわれ知らず反芻してしまうのは、どうしたわけなのだろう。それは、旅立ちの日の朝や別れの日の朝、つまり何か特別な日の朝だったりすることもあれば、昨日とかわらない、ごく平凡な一日の始まりであったりすることもある。例えば旅立つときは、昨日まで反復されてきた朝から夜までの時のめぐりが、ある緊張を伴って断ち切られる瞬間だ。毎日規則的に繰り返される円環的な時間は、そこから逃れられない者にとっては退屈なルーティンでしかない。ところが旅立つ者にとっては、その平凡な時間こそがいとおしい。特別でないことがそこではむしろ特別なかがやきを帯びるのだ。
一日/経てば日が暮れる。友だちと一緒に過ごす時間にも区切りをつけなければならない。その〈日〉との別れ、友だちとの別れ、それもまたかりそめの〈別れ〉であることにはかわりない。《お手々つないで 皆かえろ》という何気ない一節もその〈別れ〉を無意識のうちに内包している。しかし、つないだ友だちの手のぬくもりは、今日という日を惜しむ〈なごりの袖〉であるばかりでなく、同時に明日の再会を約し、新たな一日のめぐりを待つ約束手形の意味を持つ。家族のもとに帰ればあたたかな夕餉の仕度が出来ていて、別の再会と別のぬくもりがまた待っているだろう。
私たちはこのようにしてかりそめの別れと再会をいくたびもいくたびも繰り返し、繰り返すことで新たなる時に足を踏み入れることが出来る。時のめぐりとは、人の生とは何とはかなく、そしていとおしいものであることか。なぜなら子供の頃は永遠に繰り返されるとばかり思われたその時のめぐりにも、いつか終わりが、本当の別れの時が訪れることに、人は大人になるにつれて少しずつ気づいていくからだ。
この歌の第2節にはそんな別れの後の風景が歌われている。
子供が帰った 後からは
円い大きな お月さま
小鳥が夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星
子供たちが散っていった後の人気のない風景は、人の営み(文化)によって埋められることを待つ空白のページのような自然の風景であり、これを歌う者は第1節に遡行して、別れることの淋しさを一層かみしめて蘇らせることになる。