柏木博 / KASHIWAGI hiroshi
1946年生。近代デザイン史、デザイン評論家。著書=『道具(メディア)の政治学』(冬樹社、1985)、『肖像のなかの権力──近代日本のグラフィズムを読む』(平凡社、1987)、『デザインの20世紀』(NHK出版、1992)、『家事の政治学』(青土社、1995)、『芸術の複製技術時代──日常のデザイン』(岩波書店、1996)、『色彩のヒント』(平凡社、2000)、『モダンデザイン批判』(岩波書店、2002)、『20世紀はどのようにデザインされたか』(晶文社、2002)など。共著=『玩物草子──スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし』 (平凡社、2008)など。共編=『日本人の暮らし──20世紀生活博物館』(講談社、2000)など。
Q1. あなたにとってもっとも忘れがたい映像はなんですか?
A. 小学校低学年のときに、たまたま結核療養所で見た、X線透視の映像です。フィルムではなく、暗い部屋の中で、X線透視装置に映しだされた胸部の映像が青白く輝いていたことが忘れられません。X線技師が装置をゆっくりと動かし、画像は固定されずに、胸部のあちらこちらが映しだされていました。
Q2. 忘れがたい映像について理由を教えて下さい
A. もちろん、X線写真の方は、それ以前にも見たことがありましたが、さほど驚きはありませんでした。特別な光線によって、人体の内部が映しだされたフィルムという程度の受け取り方だったのだと思います。しかし、生きて呼吸している生身の人の内部がそのままライブで映しだされていたことが、子どものわたしにとっては驚異でした。しかも暗い室内でその画像が輝いているということも、衝撃を増したのだと思います。ウイルヘルム・コンラート・レントゲンが19世紀末に、X線写真を発表したときも、同じような衝撃を人々に与えたのではないでしょうか。いまだ見たことのない映像を見る体験は、やはり人々に衝撃を与えます。
Q3. あなたにとって「まだ見ぬ」映像とはなんですか?
A. それが可能かどうかはおくとして、脳の中で思い描かれた映像・図像がそのままモニタに映しだされたとしたら、どのような映像・図像なのだろうかと考えます。形にならない形、明瞭な色彩とはいえない色彩が次々にモニタに流れていくのでしょうか。コンピュータ・グラフィックスにしても、古典的な絵画にしても、それを思い描いた人々によって形をなし、映像として結実していることでは共通しています。しかし、形や色彩をなす以前の想念の流れがどのような映像を描いているのか、それを見ることができたら衝撃的な体験です。わたしにとって「未だ見ぬ映像」とは、「未だ形をなさない想念」を映しだした映像です。