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西江雅之

西江雅之 / NISHIE Masayuki
1937年生。文化人類学者、言語学者。スワヒリ語をはじめとするアフリカ諸言語およびピジン言語、クレオール言語等の研究を行なう。著書=『花のある遠景』(せりか書房、1975)、『旅人からの便り』(リブロポート、1980)、『風に運ばれた道』(以文社、1999)、『自選紀行集』(JTB、2001)、『アフリカのことば──アフリカ/言語ノート集成』(河出書房新社、2009)など。共編著=『アフリカの文化と言語』(大修館書店、1974)、『サルの檻、ヒトの檻──文化人類学講義』(朝日出版社、1980)など。

Q1. あなたにとってもっとも忘れがたい映像はなんですか?
A. 1950年代の後半。日本の状況は、現在とはかなり異なっていた。私は10代の半ばだった。ある時、写真集『The Family of Man』を見せてくれた人がいた。衝撃的な写真が次々に現われた。写真が人類の多様で豊かな情動や感動を伝えてくれる。今にして思えば、私を惹きつけたのは、個々の写真以上に、写真家スタイケンが編集して創り出した美しい物語であった。だが、あの時の出会いが、私の目を写真に向けてくれたことは間違いない。

Q2. 忘れがたい映像について理由を教えて下さい
A. 形、色、面積、動き(または変化)、対象との距離、角度。これらは互いに分かち難く溶け合って、ひとつの映像を構成する基本的な要素となっている。人は、その時、その場、一回限りの出来事として、その映像に関わる。すべての感覚、すべての感情が、大なり小なり、その実現の手助けをする。映像は過去の記憶を呼び覚まし、未来の記憶を揺り動かす。“映像を見る”とは、そのようなことなのだと、そのモノクロの写真集は教えてくれた。

Q3. あなたにとって「まだ見ぬ」映像とはなんですか?
A. “映像”は、“見る側(人)”と“見られる側(物)”との単なる出会いで成り立つものではない。見る側が、対象を主体的に選択し、さらにその細部の有り様を如何に捉えるかによって、見える映像は完成する。しかし、技術の進歩は、見ることの主体性を奪うかもしれない。目では見てもおらず、当人は見る気もない映像を、視覚器官以外の知覚器官を操作することで、見させられる。現代は、そんな時代に入りかけているようだ。

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