規定の価値を超えるために

平尾
それはあると思いますね。例えば僕らがあるプレーヤーの力量を測る時、あるいは相手チームの戦略分析をする時に、これは意図的にやったプレーなのか、流れのなかで偶然起こったプレーなのか、その判断の分岐点はいつでも微妙なところにあります。こんなものたまたまや、と括ってしまいたくなるプレーがある。ただそこで無視してはいけないのが、それが本当の能力だということです。トライしたい願望がそれを実現させているのです。人間は、どうしたらトライできるかと心底思っていたら、そこにボールを運べる能力があると思う。その思いの度合いやと。でも思いの度合いだけではだめで、思いの度合いに技術が足されて、それが非常にすばらしいプレーを生む。まさに技術と体力が連携してこないと「できる」という感覚が生まれないのです。そのプレーがすばらしく行なわれたことを「あの時11番がこう来て12番がこう飛ばしました」とか解説しても、それはなにも捉えていなくて、こいつは本当にトライしたい一心でプレーしているがゆえに、このプレーが反射的に行なわれたのだという読み取りが必要なのだと思います。それに、変に過大評価するのもよくないんですよ。

河本
その見方が解説者だけでなく、観る側にもなかなかつかなくてね。例えば、平尾さんについての伝記的な書物がたくさんあります。それらは確かによく見ているのですが、何か届かないところがあるなと感じるのは、やはりそうした読み取りに関係しているのです。外から観るだけの訓練をしていたのではなかなか届かない。「できる」という能力はものすごい重要で外には見えない。見えるのは格好や見てくれだけですから。

平尾
そういうことだと思います。だから過大評価してはいけないけれども、過小評価してもいけない、微妙な均衡がいるわけです。プレーの成り行き、そこに行き着くまでの現象をどういうふうに見るかはさまざまですね。僕は瞬間瞬間を、いろいろな可能性を含んだものとして考えて見るんですけれど、人間はさほどできすぎていないと思うので、逆に過程にどこかしら偶然を認めたり、織り込んでいかないと、本質的なものは見えなかったりしますね。

河本
それと並んで、いつも感じることがあるのです。15人のプレーヤーそれぞれのポジションの持っている価値や働きを、今後まだ変えていくことができるか、その可能性についてです。例えば将棋でいうと、大山康晴十五世名人は金の働きを変えてしまった。駒は前に進むものなのに、金引きというような下がる手を多用しました。中原十六世は右桂馬の働きを変えてしまった。それまで見えていなかった働きを見つけて、同じポジションで異なる力を発揮させる。こういうことは、システムやネットワークに必ず潜在的に含まれている。そう考えるものですから、例えばラグビーのナンバー8のポジションには、まだ何か違う働きが本当はあるようにも見えるんですよね。

平尾
おもしろいですね。僕もその通りだと思います。ゲームとしての可能性とはそういうところにあるのだと思う。ポジションごとに役割が決定されているわけではない。そこにいるがゆえにできることというのは、いま規定されているもの以上にいっぱいあると思います。あとはそのプレーヤーの資質とか、こんなこともできるぞというプレーヤーのイマジネーションなどの資源をチームがどう取り込んでいくかということだと思う。ポジションは背番号と一緒、とりあえず与えられているだけであって、例えばプロップの選手がスクラムハーフのするようなこともできるのであれば、それが一番いい。本質的に、ポジションは役割ではないのです。そのプレーヤーができることが基本になって、そのうえでポジションがあるという順番のような気がしています。

河本
そうしたことは会社組織でも同じで、ポジションの活用の仕方については、まだまだアイディア出しが足りていないという感じを受ける。

河本英夫

イメージする力、予期・予測する力の可能性

平尾
そうですね。あらかじめ決められたことをどれだけ正確にこなすかというところから脱していかないと、新しい力は生み出せない。強くなりたいとか、トライをしたいとか、その気持ちの強さが非常に大事であって、そのことがなにかとんでもないプレーを生み出すひとつのきっかけにはなる。道筋をいかにきれいに歩むかということから始まったら、それ以上のことをするのは絶対に不可能ですよね。簡単に言うとプレーがこじんまりする。予想を超えない。

河本
そこですね。日本人って、上手く勝ったら小さくなるんですよ。物書きもそうで、ちょっと売れるとすぐ小さくなってしまう。前に読んだことのあるストーリーでまた書いたり、読者の期待にただただ合わせるようなことをしてしまう。例えば神戸製鋼が毎年少しずつスタイルを変え、新しい要素を取り入れていく時は、イメージが持つ可能性とか、時間を超えた予期の働きといった問題にかなり接近していたと思う。小さくこじんまりならないためには、イメージや予期の働きをエクササイズしないといけないだろうと思うのです。

平尾
人間のイメージする力が一番豊富になる時、もっとも深読みが冴えてくるのはいつかといえば、楽しいこと、嬉しいことを考えている時です。例えば、明日彼女とデートだという時のイメージの膨らみ方はきっといつもの3倍くらいあるはずですよ。一般的にですよ、そうですよね(笑)。あんな店に連れて行ったら喜ぶだろうなとか、いろいろな喜んでもらえそうなことを考える。そういうイメージの膨らみを練習に繋げていくことが非常に大事です。だから、ラグビーがものすごく好きなプレーヤーは、動かしがたい大きな可能性を持っているのです。僕はこれは非常に重要なポイントだと思っている。イメージする力を高める、予期・予測する力を養うためには、その手法を知るよりも、好きにさせるほうが手っ取り早いし確実です。そんな連中が集まると、いろいろな想定やアイディアが出、そのなかから一番現実的なものを選択してやっていくことが自然にできていくようになると思います。

河本
でも、多くの日本の組織ではなかなかそこまで行けません。つまり、個人にある程度の資質があり、それを自由に発揮することを許容する場所があって、それぞれに取り組んでみたら力が出やすい。周りの人もそうやっているし、自分も自然と力が出せるようになってきた。そんな環境がないと、イメージする力を高め、予想を超えていくことはなかなか難しい。裏を返せば、うまくいこうといくまいと、やってみたらどうも面白くなかった、好きではなかったらしい、大したことはなかったというケースは、自分の内ではなく外から課題を課してしまっていたということだと思うのです。外から課している間は、満たしてしまったら面白くなくなる。好きになるためにはその課題をプレーヤーなり組織人に上手く設定させることがものすごく重要らしい。

平尾
好きになってもらうために、僕はいつも考えることができる練習をさせようとするんですね。というのは、考えなくてもいい練習がいっぱいあって、みんなそればっかりやっているから。でもそれは効果が少ないからあまり意味がないのです。考えさせる練習にはいろいろな選択肢が含まれているから、あまり怒ったりせずにともかく思考が動くようにしてあげないといけない。動く思考とは、こうでもないああでもない、どっちでいくべきかといった流動的な思考です。一方、ミスしたらいけないとなると思考なんてほとんど動かなくなる。失敗しないための選択しかしなくなるとプレーがちっともダイナミックでなくなる、というのは誰でもわかっていることのはずです。そのうえで、失敗した相手に「これは考える練習だからOKやで」と言えるかどうかは、もう指導者の度量に関わってくる話です。 日本人はせっかち君だから、使うほうも使われるほうもすぐに結果を求める。戦後一気に経済成長しましたが、あれはさまざまな要因の集積のうえに達成した奇跡だと思ったほうがよいのです。奇跡だから今同じ考え方をしていてもだめで、あれやこれやしていくなかで、いろいろな経験や感覚が掴めていくということが非常に重要です。練習ひとつとってもそうですが、単に成功だけが目的であれば、初めから何も考えずにセオリー通り、決めた通りやったらいいんです。でもこれでは絶対に先はない。