若くして伝説になってしまうものがいる。まるで幼少期からそう運命づけられているように、高校生、大学生、あるいは児童にして予期された伝説となってしまう。アスリートとしてのキャリアは、その段階ではこれからのはずである。だがすでに伝説である。伝説には、つねに身の丈を超えていく雰囲気と、凝縮したものが飛び跳ねるような予感と、汲めども尽きぬ潜在性がともなっている。それがオーラ、才能、将来性と呼ばれているものである。だが伝説も大半は期待倒れに終わる。予想外の怪我や故障もある。力を発揮しきれない度重なる不運もある。無駄なところに引っかかって伸び悩むという人間の本性もある。敗北には理由がある。時系列的にこうした理由を組織化したものが、物語である。物語は、本来時間関係を組織化する働きをもち、ありえたが実現しなかった現実を描く際にもっとも威力を発揮する。物語の欲望とは、ないもの、すでになかったものへの欲望である。事実日常の会話でも、その場にいない人についての語りがもっとも物語にふさわしく、誰しもその時もっとも能弁となる。

ここに現実の伝説となったひとりのアスリートがいる。ここではもはや物語は不要である。現実を語り、未来を語ればよい。だがみずからの実行したことについて、しかも自覚することなく実践された行為について、いったいどのように語ることができるのだろう。例えば自己像とは何なのか。自画像にこだわりを示す画家はかつてもおり、現在もいる。レンブラントやフランシス・ベーコンは何度も自画像を試みている。だがそれは自分からは隠された自分の顔にとってのこだわりである。顔とは自分からは永遠に隠されたもののことである。見えないものを感じ取っているから、表現は必要となる。見えているものを超えてどれだけのことを感じ取れるかが、感性の度合いを決める。

見えないものは顔だけではない。動作の半分は、つねに見えないのである。歩行する時、ランニングをする時、自分の動作を半ば自明のようによくわかっている。だがこれは見て知ることとは別の仕方でよくわかっているのである。身体動作は、見えないものを感じ取るためのまたとないエクササイズである。ここに関わっているのがイメージである。だが虚構やフィクションのような知覚以上のものを仮構するイメージではなく、自分自身の動作の直接の手掛かりとなっているようなイメージである。すなわち「遂行的イメージ」である。これは無理に言えば、主観的でも客観的でもない。むしろ行為の現実につねにつきまとう現実の可能性である。イメージを認識の一要素とするのではなく、行為とのつながりのもとで考察することが必要になる。行為や動作についての語りは、この遂行的イメージを語ることである。アスリートの語りは、行為するものに固有の現実性に関わっており、そこでは独特の経験の仕方がなされている。本を読み、知識として経験を獲得するのではない。そのため誰しも、そこからなお多くのことを学びうる。現在必要とされているのは、評論家でも研究者でもなく、知的アスリートである。

僕らの時代の地デジとアナログ

ラグビーはサッカー以上に、継続のゲームである。ラグビーではボールをもった側が圧倒的に優位に立つ。というのも、ボールの後ろからしかプレーできないからである。横からボールに働きかけたり、ボールの前に出てボールを待ち受けることは反則であり、ただちにペナルティキックとなる。例えばボールが自分の位置よりさらに自陣に蹴り込まれれば、そこまでいったん下がってボールの後ろでプレーする。そしてそこからできるだけ相手陣へと進むのである。ボールが相手側に渡れば、サッカーと異なり簡単には取り返せない。つまりラグビーはボールを先頭にした陣取りゲームであり、最終的にはゴールラインをボールを持ったまま超えてランディングする。それがトライであり、ボールの継続に区切りがつく。

ボールがいったん止まってプレーがリスタートになることがある。その時のラインをゲインラインと呼ぶ。ラグビーの規則にボールを前に投げてはいけないというルールがある。すると味方の間でボールを回している間に、どんどん後退を続けて、出発点のゲインを超えるどころかはるか後方まで押し戻されることがある。マイボールを継続したとしても、本性上後退を余儀なくされるゲームがラグビーである。実際、思想や芸術の領域でも、仲間内でワイワイやっている間に、気が付けばはるか後方まで後退していたことがよくある。ある時代の作品が、後に見ればただの後退戦だったということはしばしば起こる。

一つひとつのプレーでゲインラインを更新することは難しい。ディフェンス側がラインを押し下げようとしているのだから、容易にはゲインを突破できない。誰かがどこかのタイミングで突破していく。このブレイクの局面には、技術と体力とセンスと瞬間の判断力が必要である。またいくつもの偶然が関与する。そのためそれだけで伝説となるプレーが生じる。ディフェンスのラインに隙間があき、突如前方に開ける光の筋が見えるというような事態が起こる。誇張でも比喩でもない。実際そうした現実に直面するのである。ブレイクするものは、何か見えてくる現実が違うと感じさせる。

プレーの独創性は、差異化のような既存のものとの違いから生まれてきたりはしない。配置できる差異は、ソシュールの言うように「分明」にすぎず、フェルディナン・ド・ソシュールにとっても差異の出現こそが探究課題となっていた。しかも差異の出現は、結果として差異と判別されることはあっても、あらかじめ差異化へと向けて創り出されるのではない。あらかじめ見込まれた差異は、当然ディフェンス側も読んでしまう。すると分明になった途端にすでに差異でさえない。ブレイクのような突発的な局面は、それ以前のボールの動きを含めて、いくつもの条件が重ならなければ起こらない。だが1回限りの2度と出現しないようなものに含まれている普遍性を語るためには、人間の語彙は圧倒的に不足している。ヴァルター・ベンヤミンの膨大な努力にもかかわらず、複製不可能、反復不可能であることによってまさに普遍的であるという事態は、今日では稀なものになってしまった。

どの時代の文化にもゲインラインがある。誰しもこのゲインを突破しようと試みている。しかし継続できなければ、ただの特異点になってしまう。誰にも理解されない突破というのはいまだ突破ではない。ただのスタンドプレーである。こうした時にはひとりだけでも自分で継続してみるのである。ただしほかに同僚はないのだから、気をつけていなければただの反復に終わってしまうことがある。結果としてこんなところまで行けてしまうのかということが多くの人にわかるまでじっと継続する。また同じことを繰り返していたのでは、継続にならない。だからといって、マルセル・デュシャンを気取って、「みずから自身を繰り返さない」と宣言し、沈黙するわけにはいかない。これは実質引退の言葉である。むしろ個々のプレーにつねに選択肢が入るように試行錯誤を試みてみるのである。

持続可能性は、ここ数年の隠された流行語である。だが選択肢を欠いた持続可能性は、佐渡のトキのようにコストがかかるだけで、持続の実質性がない。かろうじて生き延びているだけである。そうなる手前で多くの選択肢の回復が必要である。なにかひとつのことを実行する時、つねに別様の選択肢がある。それを感じ取りながら行為する。選択肢のある持続可能性が必要である。そこから選択肢の増えるような持続可能性がもっとも望ましいことがわかる。