正中線の成立している世界のなかを身体とともに移動する時、風景の変化率を手掛かりにして、真っ直ぐな方向に進んでいるか、右に曲がっているか、左に曲がっているかを調整することができる。長い壁沿いを横目で壁を見ながら移動する時、一定の変化率で壁が通り過ぎていけば、壁と並行に移動していることになる。ちなみにこうした壁沿いで壁から離れるように歩いてみれば、壁の風景の変化率が変わることがわかる。この風景の変化率のことを、生態心理学者のギブソンは、オプティカルフローと呼んだ。オプティカルフローは、動物の移動の際の方向調整と速度調整に用いられている。そしてそうした方向調整が可能になるのは、視界そのものがすでに真ん中、左右対称に開けているからである。つまり視野の正中線がすでに前提されている。またオプティカルフローが活用できるのは、随意運動ができ、随意的に運動の方向と速度の変更ができるものだけである。この時オプティカルフローのような光学情報は、行為の方向と速度を調整するための手掛かりとなっている。
生態物理学は、多くの事実を明るみに出し、さまざまな解明の手法を提示してくれた。例えばものが別のものを覆い隠す遮蔽が、運動の知覚を与える。だがこうした生態物理学とギブソンが晩年に定式化した「行為機会を提供する環境情報としてのアフォーダンス」は、とても折り合いが悪く整合的ではない。アフォーダンスは、定義の仕方を誤ってしまったのである。おそらく最晩年であったために、ギブソンはこの定義を変更できないままになった。多くの有用さを含んだ構想であるにもかかわらず、こうしたもっとも良くない部分を取り出して、訳知りの議論がなされるのも認知の特質である。アフォーダンスは、生態心理学のなかで例外的な部分であり、おそらく最大の誤解を招いた項目である。
生態物理学は、行為の継続にとって活用可能な行為調整のための環境情報の取り出しに成功している。ところがアフォーダンスの定式化は、客観心理学のなかに半ば自明に前提されている、線型の主観─客観体制に行為を押し込め、いわば客観である環境情報がまるで主体的な行動を誘導するかのような場面を思い描いているのである。行為と環境との関わり、行為と情報との関わりには、そうした線型の関係は成立していない。そうした線型の関係がないからこそ、生態物理学は有効な事実を解明できているのである。線型の関係を前提にすれば、情報は先験的に環境にあり、知覚は探索を通じてそれを発見していくという、情報実在論・主観的探索の組み合わせになる。こうなればすでに筋違いの認知に入り込んでいる。つまりありえないことをまるで現実であるかのように語るのである。環境情報は、人間の行為にとって、運動イメージ、注意、身体体性感覚、身体運動感と並ぶ行為制御、行為調整のための有効な手掛かりであり、そうした環境情報のなかで、「行為選択に直接手掛かりを与えるもの」がアフォーダンス情報である。するとそれが単独で働くことはまずない。この定義の変更は、ギブソンにとっても有利な変更である。認知的行為に関わる言語的定式化は、少しでも気を抜くと定義そのものが現実から外れてしまう。
意識についても少し述べておきたい。ここ20年間、意識研究については、脳神経科学やコンピュータ情報処理が進んだおかげで、ずいぶんと議論された。ただし意識について何か決定的なことがわかったわけではない。そして現状はほぼ停滞している。意識はさまざまな活動をまとめあげる全体性(ダニエル・C・デネット、ジェラルド・M・エーデルマン)と言われたり、意識は自分の働きを感じ取るアウェアネス、すなわちひとつのクオリア(デイヴィッド・J・チャーマーズ)と言われたり、感覚処理の選択の場を開く遅延機能(クリストフ・コッホ)と言われたりしてきた。いずれも意識の機能を少しずつかすめ取っている。
しかしいくつか重大な問題が落ちているように思われる。例えば統合失調症の患者は、混迷期を除き、意識はしっかりしている。そのため意識障害ではない。だがまったく別の世界を生きており、かなりの部分で接点がない。つまり意識の全体性、意識の統合性に複数のモードがあるのではないかという予想が立つ。部分をまとめてひとつにするというような仕方で意識の全体性は成立していない。すると部分─全体で考える場合であっても、同じ部分の集合から複数の全体性、統一性が出現するようなモデルが必要となる。そしてこれが一筋縄ではいかない。例えばトランス状態も、通常の意識状態とは異なる統一状態であり、統一状態の間での移り行きがある。
また、意識ということに何段階もの落差を含んだレヴェルがあるのではないかと思える。脳性麻痺という疾患がある。生まれ落ちる時のいくつかの偶然が重なって、神経系の組織化が定常発達のようには進まない疾患である。非進行性のために、アルツハイマーのような進行性解体は起こらないが、放置したのでは神経の組織化が進まない。それどころか、組織化をともなわないまま瞬く間に体重は増えていくので、見かけ上は悪化していく。このタイプの疾患のリハビリでは世界で3本の指に入る技能を備えたソレイユ川崎のPT、人見眞理さんのところで見学させてもらったことがある。彼女は、私にとって精神医学での花村誠一さんと同様、リハビリでの最大のパートナーである。
症例は、1歳未満の小児である。ここでの治療は、認知能力を誘導して神経系を形成していくことである。治療課題の開始時点から肘関節に力が入り始め、胸から喉元に緊張が高まり、喉がゴロゴロと鳴り始めると、やがて意識が飛んでしまう。すると一瞬全身から力が抜けて虚脱状態になるが、その直後から意識は回復し、また治療課題に入ると肘から緊張が高まり始める。1時間の治療でこうしたことが20回程度起きた。最初の2回は見ていただけだが、このプロセスにリズムがあるために、3回目以降は、私の神経系はこのプロセスに完全に同期してしまい、意識が飛ぶ瞬間場面までほとんど感じ取れた。その結果それまで動かしたことのない神経が動き始めて、見学の翌日は丸一日眠っていた。眠ることができれば神経は再組織化され回復する。
またこのタイプの疾患では身体の一部、例えば腕が上がらないようなことが起こる。その時催眠をかけて腕の動作を誘導し、その後覚醒状態で腕を上げるように指示すると、数十年間一度も上がったことのない腕が上がるようになった、という報告がある。すると意識とはそもそも自分自身に無理をかけた状態のことではないかという推測が成り立つ。言葉を換えれば、意識はつねに頑張りすぎているのである。意識的な覚醒には何種類ものレヴェルがある。そして残念ながら意識は、このレヴェルを使い分けるほどみずからに成熟してはいない。確認できるのは、意識─無意識という対比がすでに粗っぽすぎるということである。意識の働きがなんであるかは、まだまだこれからの課題である。
オートポイエーシスの要点を確認しておく。自己組織システム以降のシステムは、動きの継続から組み立てられている。自己組織化は、作動しながら新たな変数を獲得するシステムである。カオスは、数学的には決定論的システムであるが、予測不可能な事態が出現するシステムである。つまりなだらかな曲線だと見えているもののなかに、無限に展開しても到達できない不連続点が無数にあるような事態を指定している。例えば2次元と3次元の間には、実は無数の次元があるような空間が開けているのである。
自己組織化は、入道雲や渦巻きの出現のように動きながら構造を維持するシステム(散逸構造)であり、主要なターゲットは「個体」の成立にある。個体は、たとえそれが物体であっても世界内の不連続点である。しかも個体にはさまざまなレヴェルと範囲がある。宇宙総体が個体であることもあれば、ホルモン様タンパク質が個体である場合もある。眼前の物を見る時、空間内に配置して見ている。しかし物が固有に領域化した時、観察者が見ているような空間内に物は存在しているのだろうか。物は固有にみずから空間を領域化しているはずである。そのことを感じ取れないのは、観察者の位置から物を見ることに慣れ切っているからである。ところが観察者の視点を括弧に入れれば、ただちに物に到達できるわけではない。視点の括弧入れは、現象学の方法的技法に入っているが、これではまだ自分の視点を括弧入れしただけである。ここからどうやって物の固有性に到達するのか。ここに無数の工夫が必要になる。個体性にどうやって到達するのかは、スピノザ、ライプニッツ、シェリング、ヘーゲルのような哲学者でも最大の課題になっており、精確には無駄に終わった屍の歴史である。実はカントやフッサールは、自分の見出した視点(超越論的視点、体験的視点)の普遍性を確保するために一生懸命であった。つまりこれらは哲学の例外なのである。
自己組織化にはもうひとつ重大な特徴がある。こうした個体化のプロセスを記述するプログラムは一体どのようなものになるのかという点である。繰り返し提示してきた例を挙げる。
家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる2組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の13人の集団には見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。しかも職人たちは自分たちが何を作っているかを知ることなく家を作っており、家が完成した時でさえ、それが完成したことに気づくことなく家を建てている。実際ハチやアリが巣を作る際、あらかじめ集まって設計図を見ていたということは考えにくく、またそうした報告もない。
このなかの第2プログラムは、体験的行為全般の基本的なコードである。また現在の人間にとっては感触がつかめるだけである。感触をつかみ経験を獲得し、いったん言語的定式化を括弧入れして、それぞれの領域でのシステムの継続的な立ち上げ(オートポイエーシス)を行なう際の手掛かりになるだけである。実はフランシスコ・ヴァレラの師であるウンベルト・マトゥラーナは、これを自己組織化のための一般的なプログラムだと考えていた。ところが現在人間が主に用いている第1プログラムと、ここで示された第2プログラムの間には、中間領域として、かなり多くのタイプのプログラムがあるのではないかと考えられる。だがどのようなタイプのプログラムであっても、共有されている事柄がいくつかある。
第2プログラムのもとでのプロセスでは、13人の職人のうち、ある時期には2、3人しか作動していないこともあれば、13人全員がフル作動していることもある。プロセスの継続に必要な限りでの参加要素がその都度決まるだけである。プロセスの継続に必要な要素の集合はその都度変化し、作動するシステムの個体性もその都度変貌する。要素の集合からシステムを組み立てるのではない。むしろシステムの作動の継続がその都度要素の集合を決めていく。これは動きの継続が感じ取れる場面では、まず動かしてみる。それに参加しそうな人たちは、ともかく参加してみて、この動きの継続に関与できなくなれば、おのずとそこからは外れる。
さらに要素が人間である場合、その人間は連続的に行為し続けている。そのためみずからの行なっていることが何であるのかの全貌を知りようがないが、にもかかわらず有効に行為することはできる。行為と認知の間には、埋めることのできないギャップがある。そこに終わることのできない経験の形成がある。つまり建築を終えた時、終わったことさえ気づくことはない。物事の完了は、つねに追憶のなかでしか起こらない。この時個々の要素は、自分自身の能力がもっとも発揮しやすいようなイメージをもつことが必要であり、またそれがそれぞれの個人に固有の選択肢を与える。最終段階の家はつねに結果としての家であるため、括弧に入れる。括弧入れしたまま、自分自身の有効な行為のための先行的なイメージを描くのである。それは間違いなく、遂行的イメージである。このことは個を形成するために欠くことができないが、遂行的イメージの形成のためには、学校教育にはないエクササイズが必要である。その素材のひとつが映像であり、写真である。
映像には、現実の一部を切り取るという視点や視角の問題がつねにつきまとう。アングルの工夫は、避けようがない。家を欠いたまるで宙に浮いたような階段だけのラセン階段、どんなにこぼれても終わることのない傾けられた缶コーヒ、真夏の真昼の学校のグランドに立つ影を亡くした男、低い鼻の付け根を打って鼻血を流している猫、まるで銃口のような春の城の開き窓、掟の門のように重複して並んだ門列、ギリシアの4元素のひとつである空気の原イメージのように、情景にはいずれにしろどこかで意図と作為がともなってしまう。もとよりそうした意図を共有して、いくばくかの楽しみを憶えることはできる。さらにそこからそうした意図や視線が消えていく情景を考えてみる。映像にともなっているはずの視点や視角を消してしまうのである。それは作品から作為性を消したり、映像による一時的な衝撃によって視点を忘れることではない。つまり構成的な視点に対して、受動性を強調するのではなく、視点そのものを操作することではない。いくつかの手掛かりを提示してみる。
現実の物体や情景や世界は、それとして捉えられている場合、どこかで個体が成立している。この個体性がうまく取り出せれば、いずれにしろ現実はそれ自体固有化する。技術的な制作物の場合、例えば自転車であれば、一つひとつの部品を組み立て、組みあがった時に個体が成立する。ところがこの個体を分解していく時、一つひとつの部品にまで解体される手前で、何段階にも個体として止まる局面がある。前輪を外して一輪車とし、余分なものを取り除いてみる。そこにも個体が出現する。これはデュシャンがレディ・メイドで試みていることである。物事が組み立てられていく際のプロセスでは、つねに目標があるために、どのプロセスもそこへの途上となる。だが分解過程では、組み立てる際に出現する個体性とは異なる局面で止まることがわかる。個体は、それ固有に領域化する。この個体をうまく感じ取ることができるように映像を取り出せば、おのずと視点は消える。
各家庭では、壁に換気扇が埋め込まれて回転している。とするとCDレコーダーも壁に立てかけたらどうなるのだろう。CDレコーダーを家具のひとつとして配置するのではなく、建築そのものの構造部材のひとつとして活用するのである。音の出る換気扇は可能である。換気扇は空気を送りだすために恒常的に鈍い音を出している。そうだとすると羽根の形状と、羽根にいくつか孔を開けることで、特定の音色を出せるはずである。そして外から吹き込もうとする風の向きと強さによって、次々と音色は変わる。換気扇の形の映像から、音への感度を喚起することはできる。これはレヴィ=ストロースが未開部族の叡智だとした「ブリコラージュ」(手元仕事)に近い。身近なあり合わせのもので予想外の個体を作り出してしまうのである。
こうして語ってきたことは、知識の蓄積とは別の仕方で、経験の可能性を拡張していくことである。それは世界が何であるかを知ることではなく、世界が何でありうるかに向かって、みずからの組織化と、世界への関わりの組織化を行なうことでもある。