自転車に乗るような単純な身体動作の場合でも、意味として乗り方のみがわかっているだけでは実行できはしない。身体動作の習得は、身体動作を介してしか行なうことができない。エクササイズで何かが習得される。だが何が習得されたのだろう。仮に習得したことを言葉で語ってみれば、およそそこで習得したこととは無縁なことが語られてしまうことがほとんどである。ちなみに自転車に乗れる人は、自分の乗り方をできるだけ詳細に書き出して、自分の書きだした手順に従って乗ってみてほしい。まず間違いなく怪我をする。言語を通じた学習では、そこで習得したことを言語的に明らかにできる。ところが言語を通じての学習とは異なることが実行された場合、そもそも言語的な理解とは異なることが起きている。事実、麻痺によって歩けなかった人が、歩き方をいくら言語的に精確に知っても、歩けるようにはならない。ここには知るとは異なる能力、すなわち「できる」という能力が必要とされている。だが現状ではこうした場合、機械的な反復動作ぐらいしか手がなく、本人もトレーニングと称して、同じことを繰り返すのである。それがまた心地よい。実は動作や行為を含んだ経験の仕方に対して、人間はいまだほとんど学べていないのが実情である。そして言語的な理解では、まったく届かないのである。
ここ7年間リハビリの現場に関わってきたが、歩けない人が身体のどこかの部分の力が抜けた時、突如歩けるようになることがある。リハビリとは18歳を過ぎ、いわゆる青年期の成長期を終えたものが、みずから自身を再生する際につねに用いているものである。その意味で成長期以降、生きることはリハビリの別名である。例えば交通事故で13年間歩けなかった人がいる。身体そのものが治癒しているのに動作ができないのは、動作を行なうために行う本人の必死の努力によって、どこかに無理がかかっていることが多い。その無理を解除してしまうと、信じられないほどなめらかに動作が回復されることがある。本人の必死の努力が、みずからの動きを妨げているのである。
ところが歩けるようになると、昨日は30m歩けるようになった、今日は50m歩くつもりだという宣言するようになる。こうした時、本人は希望に満ちて生きている。それを妨げるわけにはいかない。同じことの繰り返しはよほど意識の本性に適っているようである。再獲得された歩行のなかに選択肢が消えてしまっている。停止、横歩行、後ろ向き歩行のような歩行モードの違いだけではなく、歩行そのものもさらに滑らかにしなければならない段階でも、全身希望にあふれて、一直線に動作訓練に入ってしまう。意識によって成立する目標設定は、本人にとっては明確で、努力を線型に組織化する。だがこれらは、つねに「過剰整合性」を帯びてしまう。
この時、触覚性の身体が忘れられている。目標と50mという実際の数値は、知の現実であって、行為の現実ではない。これらは意識的に配置された事実である。それに向かうのだから意識の統合度は上がっている。だが身体の多様度は下がっている。そこでまず自分の身体を感じ取ってみる。身体を感じ取ることは認知科学ではながらく「固有感覚」と呼ばれてきたもので、それ以上に探求が進まなかった。例えば相撲を見る時、土俵際の攻防で見ているだけで思わず身体に力が入っていることがある。これは身体内を動く力感を感じ取っているのである。こうした場面の身体を、マルク・リシールは「イメージ身体」と呼んだ。だがむしろそれは身体内感である。身体内感は、強度性としての度合いである。それ自体は輪郭をもってはいないが、この度合いには同時になにかのイメージが連動していることが普通である。このイメージの側が、イメージ身体である。ジョギングをする時、動いている身体の感じ(キネステーゼ)とは別に、何か身体のなかで、身体を通じて動いているものが感じられる。それが身体力感である。それを用いて身体運動の調整を行なっている。身体の動きを見る時、この強度の度合いを感じ取ることと、そこに固有のイメージを接続してみることが必要になる。これも見えないものを感じ取る経験の一例である。
さらに身体ではとても重要な事柄がある。それは身体の動きを通じて同時に認知が実行されている場面である。ある棒(10cm程度)の長さを閉眼のまま指でなぞるようにして知る場面を考えてみる。眼を閉じて棒の下端から上端まで指をそわせながら動かしてみれば、おおむね棒の長さはわかる。この時、何を手掛かりにして長さを認定しているのだろうか。指を移動させ、移動した距離についての移動感(距離覚)は関与している。どの程度の距離を動かしたかは指でおのずと感じ取られている。また指を反らせている時の指先の位置(位置覚)も関与している。なぞっている指の相対的位置によって、位置の違いからだいたいの長さを認定できる。あるいはその移動のプロセスの運動覚(キネステーゼ)で棒の長さを認定していることもある。あるいは思いっきり指を反らせた時には、指の抵抗感や痛みの度合も関与していることもある。それは無理に指を広げたという度合を手掛かりとして認知されるのである。
身体運動をともなう認知は、身体運動に関わる身体的感覚(運動覚、位置覚、距離覚、延長覚等々)とともに感知されており、同時に対象の長さの認定がなされる。これは運動によって知覚が支えられたり、知覚から運動が誘導されるような外的関係ではない。動作と同時に、動作とは異なるものが実行される。これらを触覚性力覚と呼んでおく。これについては認知科学にも現象学にも適切な言葉がなく、やむをえずロボット工学から用語を借りることにする。ここで確認できるのは、身体動作をともなう触覚的感覚は、五感のひとつというより、概算で数十のオーダーで分節してくると考えておいたほうがよいことである。五感というのは、もともと医師であったアリストテレスが、感覚器に対応させて数え挙げたものである。ところが身体にはその内部と動きに関して、感覚器に一対一対応しない多くの感覚的認知がある。五感というのはすでに粗い要約にすぎない。
身体を動かしながら世界の基本事実は組織化されていく。そのため逆にひとつの映像や写真を見る時でさえ、その映像を通じて感じ取られている触覚性感度とそれと結びついているイメージを思い描くことができる。これも見えない現実を感じ取る重要な経験の回路である。
行為に連動する認知のなかでもっとも重要なものは、注意である。同じ風景や映像を見ても、見える人には無条件に見えて、見えない人はいくら努力しても見えないという事態が起こる。見方を教われば見えるようになるが、その場合には教わったことしか見えない。注意が向かないために、現実そのものが成立していないのである。最寄りの駅から自宅まで歩いて帰る際に、むかし立ち寄ったことのある店が閉店にしていることに気づくことがある。近寄ってみると3週間に閉店したという張り紙がある。つまり3週間の間、この事実に注意が向いておらず、閉店という現実が成立していなかったのである。ラグビーのような瞬間の判断が要求されるゲームでは、どの程度の広さで注意が向いているかどうかが決定的である。教わらなければ注意の向かない人は、一般に鈍感だと呼ばれる。注意は、世界を知る認知能力ではなく、むしろ世界との関わりを組織化する実践能力である。
注意には大別して、3つの働きがある。真暗闇のなかを歩いている時、足先に何かにかがあると感じられる。それが何であるかはわからない。その時足先に何かがあるという現実が出現している。あるいはそうした世界が個体化している。これは知る働きではない。何であるかを知るためには、知るものが個体化していなければならない。知ることの一歩手前で現実性の個体化(個物化ではない)が成立していなければならない。現実性の成立と対になった働きが、行為的注意である。行為の継続を通じて同時に組織化されているのが、現実性の個体化である。知覚は、これにずっと遅れて起動する。知覚は個体化したものが何であるかを知る働きであり、そこには視点や観点がつきまとう。その結果見方を変える、別様の視点で物を見るというようなことが語られる。だが、同じ現実を別様に見ても解釈が変わっただけで、世界は何も変わりはしない。
こうした注意能力は、運動能力にも感情にも大幅に依存している。一般に運動のさなかでの注意は、運動可能な範囲にしか及ばない。ボールを蹴ろうとしているプレーヤーが注意を向けることができるのは、自分の蹴ることのできる範囲である。ディフェンスの動きに注意が向くのも、対応可能な範囲でのことである。またスペースの広さに注意が向くのも、キックの精度に依存している。そのため身体技能のエクササイズは、欠くことができない。この時重要になるのが、「最近接領域」である。これは発達心理学者のレフ・ヴィゴツキーが述べたもので、半ば成功し半ば失敗するような行為領域である。この領域でのエクササイズを繰り返し積むことが、注意を拡張することにつながる。すべて成功するものはもはやエクササイズではなく、まったく成功できないものはエクササイズでさえない。ところが日本の学習は、成功の保証された正解を積み上げるように仕向けられている。その結果、失敗すればまるで犯罪を犯したかのように思い悩むのである。正解とは成功した後に理由づけを行なってはじめて成立する。そのためあらかじめ正解を求めるような手順は、本に書いていることを、現実のすべてだと取り違えるような勘違いなのである。
また路上に小石が落ちている時、何か不穏な気配を感じることがある。前に走ったトラックから落ちたものなのか、前方左の崖から崩れ落ちたものなのか、あるいは誰かのユーモアなのか、いろいろと推測はできる。だがその手前で気配を感じ取っていなければならない。これは感情の一種だが、外に感じられる感情であるために、マルティン・ハイデガーは特に区別して「情態性」と呼んだ。また脳生理学者のアントニオ・R・ダマシオは、感情を介した現実性の成立を「ソマティック・マーカー」と呼んだ。映像や写真が何であるかを知る以前に、多くの場合雰囲気や気配がともなっている。作品の現実性にとってその部分はとても重要である。
第2の注意の働きが、選択的注意と呼ぶべきものである。これは現実のなかのどこかに注意が向くことである。通常は選択的非注意のほうが問題になる。当然見えていてもよいものを、気づかず見落としてしまっているような場面である。意図して無視しているのではない。ただ気づかないのである。特に観点や視点にとらわれていると、見えていなければならないものがまったく見落とされていることがしばしば起こる。さらに見ようと努力すると、過剰整合性が起きてしまい、気づかないままにその傍らを通り過ぎることになる。実は精神医学系の疾患では、この選択的非注意がしばしば起き、部屋の入口に花瓶があったでしょうと言っても、そんなものはなかったと言い張るようなことが起きる。
この時、意識を中立化することが有効である。アスリートの場合、走り始める時全力で力を込めて加速する。一定速度に上がった時、全身から力を抜き、加速しているのだが力みが消えている状態が実現する。これを加速慣性走という。ゆったりしているのに速い走りである。これに類似させて、何かを見ようとして選択が起きると、その段階で意識を中立化するのである。というのも視覚は前に向き過ぎているのであり、前に向かう本性をもつものには、本来つねに中立化が必要なのである。
第3にじっと見る、しばらく見続けるような場面での焦点的注意がある。細部を細かく見るのではない。ただじっと見るのである。これは見えるもの、見えるはずのものが立ち現われてくるまでじっと佇むことに近い。「佇む」という動作は、今日ほとんど消えてしまっている。そのためあらためて獲得しなければならないほどである。意味で物事を理解してしまう場合には、作品に対して配置を与えるような理解をして、それでわかったことにするというのがほとんどである。この作法は作品に対して、経験の速度が合っていない。あるいは作品を経験せず、理解と配置だけで通り過ぎてしまうのである。焦点化は、既存の見方、視点、とりわけ視覚的な理解を括弧に入れ、出現するものの前で経験を開くことである。こうした意識の動作を、現象学では「判断停止」と呼ぶ。
リハビリの現場では、すでに回復した能力を用いて動作を行なってしまう代償行動がしばしば起こる。足をまっすぐに出すことができず、外側だけを地面に沿わせて歩く外転歩行は広く見られる。代償行動でも機能的には歩行になっており、到達点まで至りつくことはできる。一度そうした習慣を身につけてしまうと、ただちにそれが繰り出される。これらは外見的にもはっきりわかるので、あの代償行動は治しておいたほうがよいことはわかる。最近しばしば思うことがある。実は、認知の場面でも、認知的代償行為は広汎に行なわれており、筋違いの認知、問いを誤解した認知は、ただちに起動されてしまうのではないかという点である。作品をわかった気になってしまったり、意味や主題だけを理解してしまい、作品との関わりで自分の経験を組織化できなくなっているのではないか、という思いがある。これらは観点の問題だというわけにはいかない。認知的代償行為が起動して、作品にうまく関われなくなっているのだとすると、見方を変えるのではなく、経験の仕方そのものを変える必要が生じる。
大野一雄という100歳を超え出たダンサーがいる。足腰も弱り、普段は車イスで生活しているが、舞台の場面ではすっと立っている。光や音を振動として感じ取り、重力を身体の不透明さとして感じ取るような感度を備えた詩人でもある。「目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできてて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすいようにしてありますか。目から鳥が入ってこようとしているときに、入ってこられるような目でやっていますか。いつも動作しながら、すっと入ってこられるように、すっとやらないとだめだ」(『稽古の言葉』)。たとえ視覚であっても、眼とは触覚的に感じ取るためのひとつの媒体であり、見るための器官ではない。そのため例えば植物を見るとは、植物の傍らでみずから植物を感じ取ることである。無理に言えば、みずからの身体や魂に含まれる植物性を呼び起こし、その植物性に身を添わせるみることである。