神楽とは形式ではなく即興です

藤幡
音の持っているリアリティについてもう少し考えたいのですが、細野さんが選曲・監修された全8枚セットの『ETHNIC SOUND SELECTION』(日本音楽教育センター、1989)は、民族音楽ばかりのセレクションでした。それぞれに「祖先」「哀歌」「既視」……というテーマがありましたが、あれを聴いていて面白いのは、演奏している人がそこにいる感じがしてくることです。この仕事は細野さんにとってはどういったものだったのでしょうか?

細野
とにかく量が多くて大変(笑)。仕事としてやったにすぎないけれど、民族音楽はその頃一番好きな音楽だったからいいタイミングでできた仕事だったんだ。なるべく作為のない音楽が好きだったということになると思うのね。

藤幡
民族音楽の場合、録られていることも意識していなかったりしますよね。

細野
僕はその当時、ライヴは即興にこだわっていました。よく神社の奉納演奏会に招いてもらっていて、吉野の天川弁財天とか、あるいはその後ずっと伊勢の猿田彦神社で毎年ライヴをしていたのね。そういう機会に神楽をやろうと思い、神楽の本質を考えていたんです。そして、神楽とは形式ではなく、自分たちが一番楽しくできる方法、つまり即興であるとわかった。例えば譜面に書かれたものを全部再現するということは、それを覚えなければならないということ。覚えるということのなかには忘れることもあるし、必ず失敗がつきものとなって、それとの奮闘になる。矢沢永吉だってNHK紅白歌合戦で歌詞を忘れたりする(笑)。プレスリーもそうだったけれど、ライヴの出番前まで歌詞を見て確認するわけです。それはストレスであってけっして楽しいことじゃないでしょ。譜面を見ながら演奏するのも楽しくないし、一番いいのは即興だと。即興というのは間違えようがない。かちっとした目標がないということも、その場で作っているということもいい。さらに言えばね、観ている人に向かって演奏するっていうのは必ずしも音楽の本質ではないんだよ。なぜそのように思ったかというと、先ほど話した民族音楽のなかには、誰も聴いていない、自分だけのための音楽というものがあるの。例えばムビラ(Mbira)という親指ピアノは、旅をしながら自分のために弾くものであって、けっして人に聴かせるためのものではない。フィリピンの山岳民族にも鼻笛というものがあって、鼻息で吹くから、人に聴かせようにも音が小さすぎて聴かせてあげられない(笑)。そういう誰に聴かせるわけでもない音楽が、音楽の原点だと思った。だから僕はライヴという感覚を取っ払ってしまったの。たまたま人が見ているけれど、ミュージシャンというか演奏家が車座になってお互いを感じながらやるのが本当の音楽であり神楽ではないか。そのような考えで10年くらいライヴを続けていた。だから僕には「演奏者」対「観客」という二項対立は古臭くてしょうがない。今はまた少し考えていることが違いますが、当時はそういう思いがとてもあった。

対談風景

東京には死んだ場所もないし、生きてる場所もない

細野
基本的には神楽みたいなことをずっと続けようと思っています。演奏する人もいるけれど、観ている人もまたいる。その真ん中にいつも祭壇みたいなものを置いておく。そこを中心として、演奏者と観客プラス第3の場をつくるわけです。お互いに見つめられることがないようにすればリラックスするでしょ。ところが最近はそのような神楽的なシチュエーションではなく、ポップ・ミュージックのライヴが多いからどうしてもライヴ・ハウスが多くなってしまう。これはもう仕方なくやっているんだけど。いまだにホールという形式が好きになれない、大嫌いなんだけど、仕方がない。特に東京は本当にダメで、良い場所がない。そういう意味では僕は東京が大嫌いだね。

藤幡
僕の言葉で言うと、東京はあらゆることがコマーシャライズされていて、お金を払わないとなにもできない空間になってしまった。地理的にも心情的にも、空き地がなくなって久しい感じが強くあります。

細野
死んだ場所もないし、生きてる場所もない。だからもう最近は本当に他の町に引っ越そうかと思うくらい。

藤幡
そのこととダブってくるかもしれませんが、先ほどお話した蛍光灯で作ったテレビの展示は、最初個人の方のギャラリーでやったんです。つまり、そのギャラリーの持ち主の心意気のお陰でできた。もちろんお金が潤沢にあるわけではないから僕も制作費を工面しなければならないけれど、このような特別な展示ができてしまう。11月にやったお茶の水の文化学院での展示も同じです。文化学院は言ってみればその創立から特殊な学校でして、「場所はあるから何かやってみないか」という話からはじまったんです。これもまた基本的には予算がないのですが、でも面白いことができてしまう。このとき、そうか、ある種の個人的なブルジョワ(富裕層)がこれまでの東京の文化を作って来たんだということに気がついた。つまり旦那衆と呼ばれる人たちですが、今はその旦那衆たちに元気がないのです。

細野
東京はもう本当にコマーシャライズされちゃっててダメでしょう。

藤幡
60年代は東京にも元気がありましたよね。好きにしていいよ、楽しくやれよという雰囲気があった。これは若者に対するメッセージになるのかもしれないけれど、細野さんは大学在学中の後半からデビューしていますが、別にすぐに儲かったわけではないでしょう?

細野
もちろん、まったく。今思うと、その頃は気持ちがちっとも外に向かっていなかった。何かをアピールして儲けようとかは一切なくて、先ほど話した神楽と同じで、自分たちが楽しいと思うことをやっていたのね。はっぴいえんどがまさにそうで、一切外には向いていなかった。売れると思っていないということは、売れることに関心がなかったということだろうね。

藤幡
それはバンドのメンバーそれぞれの家が恵まれていた、ということと関係ありますか?

細野
それは多少あるだろうね。うちもまあ中産階級だった。

藤幡
プチ・ブルで(笑)。

細野
プチ・ブル未満だけどね。だからハングリーさが支える世界にはコンプレックスがあるの。矢沢とか(笑)。だから今は本を読んで「成り上がり」について考えているんだけど、僕はもともとが成り下がり気質だから、どんどん人前から遠ざかってどんどん成り下がっていっている(笑)。

藤幡
最後は鼻歌を歌う細野晴臣になっていく(笑)。
藤幡