「音楽」を聴いてるの? 「アピール」に反応してるの?

細野
忘れられたいなと思うところもあるし、今はだいぶ忘れられているので楽になってきているんだ。このおっさん誰だろう、というくらいでいいんじゃないかと。ついこのあいだ横尾忠則さんと話していてそのときもおっしゃっていたけれど、カルチャーやアートにおいて、皆が自己アピールを目的にして生きすぎていて、そこには自分に対しての内的な葛藤がない。皆何かを強烈に指し示している。それはアートとしてはなにか偏っているのではないか。確かに音楽もすごくそうなってきていて、全部がなにかをアピールしている。

藤幡
よくわかります。それも変わり目に表われていることのひとつですよね。70年代くらいから以降の文化のなかで、今の20代から30代の人はヨーロッパ的な方法論を学んできていると思います。だから美術の世界でも20代の若さで海外でヒットする人も出てくるようになった。彼らは横尾さんがおっしゃるようにヨーロッパの方法論に対して上手くアピールし、その意味において成功したわけですが、もうそろそろそういうことに対する冷静な批判、反省が現われてくるのではないでしょうか。海外で成功すればそれでいいという話でもないわけです。しかし、その憤り感を何か上手く批評的な言葉で言えないでいるのが、まさに現在だという気がしています。

細野
そうだね、上手く言えないね。例えば世の中に蔓延している日本の音楽とかポップスを仕方なく聴いているけれども、これはなんか好きではないなあと感じていても、そう言える人がいない。

藤幡
これは嫌い、と言い切れもしないということですか?

細野
そう、だからややっこしいの。違うものがあれば比べられるのに、その世界しか知らないから言葉を持てない。ある若い女の子がここに取材に来たときに、僕はJ-POPのことを知らないし好きではないと話すと、その子も「私もべつに好きではないんです」と言うの。自分もそうだし皆もそうだけれど、それでもJ-POPを聴いていると言った。そのややこしさはどういうことなのだろうかと考えてみると、まずはほかに音楽がないからJ-POPを聴いているようなんだよ。だからそれは「音楽」というものを聴いているのではなくて、単にすべてのJ-POPが発している強いアピールに反射神経で反応しているだけ、そういう聴き方しかできないようになっているのが今だと思う。

藤幡
ああ、わかります。学校で教えているので、日常的に20代の連中を見ているわけですけど、どうやってリアクションを返すかということだけに長けたやつがいるんですよ。

細野
芸人みたい(笑)。

藤幡
僕が「○○って××だよね」と言うと、「はい、そうですよね!」と返してくる。で、やれやれと、「今のはお前を引っ掛けようと思って言ったんだよ」とか言うと、「ああ、そうですよね!」とか前のめりで言うの(笑)。もう本当にがっくりするようなやつがいる。その子はたぶん頭の良い子で、小学校以来いじめとかに合わないようにするためにそういうリアクションに長じた処世術でずっと過ごしてきたのだと思います。そういう処世術をもって芸術大学に来るのもおかしな話だと思うけれど。「本当は君は何がやりたいの?」って尋ねても、「そうですね! 本当の自分って大事っすよね」みたいなリアクションなんです(笑)。すごい時代になったなと思いますよ。対話のなかでいくら皮をはがしてもなかなか本質にたどりつけない。手ごわいというか、ややっこしいですよ。

街角を曲がったときに見える、風景のような文化

細野
即興とか作為、そして音楽の聴き方の話からJ-POPの話になったけれど、文化がいい流れをしているとはけっして思えないの。例えば、概して言えばミュージシャンは最近どんどん貧乏になっていっている。それはやはり寂しいことだけれども、まだ世の中の経済状態が半端なのではないかと思う。中国の経済力が日本を抜くとかGDPがどうとかいう情報が実体はともあれ一人歩きしていて、われわれの日常に植えつけられてしまっている。それは相対的な評価だから、抜かれたとしても大変なことではないと言う人もいる。要は、心理的な面でも不景気が蔓延していて、今はある種の飽和状態を迎えている。けれど、ここで何かもう少し切羽詰ったことが起こらないと次の手の打ちようがない。病気もそうだけれど、半端な症状では手が打てなくて医者が相手にしてくれない。今われわれはそのような世界にいるのではないか。例えば1930年代のアメリカ経済は世界恐慌のなかでどん底だったと思うけれど、ガーシュインとかアーヴィン・バーリンとかが素晴らしい曲を残している。だからエンターテインメントはそんなときにもっと輝いてもよいと思うんだよね。そういう可能性があるなら、今の状況はひとつの試練であり楽しみでもある。

藤幡
日本は経済も政治も、危機感を煽るという方法で成長を促進させてきたわけですが、今はその転換期ですよね。身近な意味での豊かさみたいなものを見つけなければいけなくて、それが文化だと思う。ヴィトンの服を着るということではなくって、街角を曲がったときに見える風景のような、簡単なことなんですよ。

細野
だから例えば、ヨーロッパの人たちは鍛えられているというか、文化の支えがあるからなのかすごく楽観的じゃないですか。

藤幡
そう。ヨーロッパに行くと、今の時代でも外のことをぜんぜん知らない人ってたくさんいますからね。若いくせに「生まれたこの街が最高」ってどういうことなんだよ、と(笑)。

細野
楽観的な世界観のようなものを江戸文化に求めている若い人もたくさんいるようだけれど、それはわかる気がするんだよね。

藤幡
ずいぶん前ですけれど、荒川修作が面白いことを言っていました。日本人は富士山があるから日本だと思っているんだろう。だから富士山を破壊して更地にしろ、と。それくらいのことをして初めて日本人にアイデンティティのゆらぎが生じて、皆がまじめに考えるようになるんじゃないか、と。自覚させるにはそのくらいのことが必要なのかもしれません(笑)。
対談風景
細野
なるほど、そのとおりかもしれない(笑)。僕はこのあいだテレビで富士山の特集を見ていて、すごい山だな、これがあるから日本人はやっていけるのだなと思った。そのときは壊そうとは思わなかったよ(笑)。

藤幡
そういう意味では、もう一度日本を見直すということを考えるべきかもしれません。細野さんはそういったことを何回かされていますよね。

細野
僕もやっているけれども、仕方なくなんだよね。でも今の状況にあるなんか嫌な物事というものは見えやすいけれど、良いことというものは表に出ない分だけ水面下ですごく拡がっているような気がする。表に出ているのは上澄み、灰汁だけではないかと思う。今の僕は、その下の拡がっている何かから感じていることが多い。これまでもいろいろな革命はあったわけです。政治革命、産業革命など大きいマッスの単位で革命をしてきた。けれども今はそのようなことは考えられないし、エコロジーのような運動もあるけれど、大きな意識を形成することはないと思うの。10年以上も前にも言っていたことを思い出してまた今しゃべっていますが、僕自身がそうだったけれど、一人ひとりが静かに変わっていく時代だと思う。そのような人が少しずつ増えている。だから静かすぎてわかりにくい(笑)。今は静かなものが力をためているんじゃないかなあ。

藤幡
それはどこかで堰を切って溢れてくるものなのですか?

細野
何かのきっかけでたぶんそうなると思う。日本は富士山がいつまでもあるとは思えない国ですよね。富士山が大噴火を起こして今の形になったのがつい300年くらい前だったように、いつかまた富士山は爆発するから。それだけではなくて、テレビでも煽っているように、地震は必ずくる。そういう自然史が分岐点になっちゃうと思う。これは避けられないことで、それによって人は変わっていくしかない。僕の思う飽和状態とはこのようなことなんだよ。

藤幡
地形的にも経済的にも大きな変化が訪れるだろうと。たしかに歴史的には日本はそのようにして変わったことの多い国ですね。自然史じゃないけど列強の外圧もありました。つまり日本人の意志とは関係のないところで変化が起こっています。そうした変化が突きつけられ、それに対する処し方如何で今ができているということは事実ですね。

細野
地震の予知はできないことになっているけれど、そのことが暗に教えているのは、今日起こってもおかしくないから一人ひとり準備しなさいということです。逃げたい人は逃げる、整理したい人は整理しなければいけないと。僕は神戸に行こうかなと(笑)。神戸は好きだし。

藤幡
どうして神戸なんですか?

細野
このあいだ遊びに行って、なんて居心地がよい街だろうと思った。本当に世界一好きな街かもしれない。ヨーロッパの古い街に行くとよい街だとは思うけれど、やっぱりヨーロッパはあらゆることが一色染めだから。神戸は食べ物で言えば中華、和食、洋食が並んでいる。建物も大事にしているし、けっしてわさわさしていなくて、どこか停滞している感じもいい。理想的な街だと思う。僕は港町が好きだけれど、横浜はどこか港という感じがしないし。

藤幡
おっしゃるとおり。学校が横浜にあるのですが、港と街の間に接点がないのが残念。

細野
だからアーティストが皆で神戸に行って、そこで何かやればいいのではないかと。東京でも小出しにやってはいるけど、広すぎて散漫で、限界を感じてます。