藤幡
もうひとつマニアぶりを発揮しようと思います(笑)。これはウエスタン・エレクトロニック社が作った減衰器(アッテネータ)です。通常の可変抵抗器ではなくて、中に100個くらいの抵抗器が入っていて、その抵抗器を切り替えて音量を変えるんです。マイクロフォン用の600Ωがバランスのまま使えるようなものです。良い音がするからと言われて、何万円もしたけれども買って繋いでみたら、このアッテネータだけでいきなりウエスタン・エレクトロニック社の音になってしまいました。ノリがぜんぜん違ってしまうのがすごくショックだった。つまり、物質でノリが変わるわけです。たぶん当時のウエスタン・エレクトロニック社は、より良い物質を探求してここにたどり着いているわけですよ。
細野
そうやって1950年代のある時期にピークを迎えたんだね。
藤幡
リボンマイクもそうだと思いますが、どうしたら良い製品を作ることができるかということを、頭のなかだけではなく手作業として物質と対峙して作っていた。
細野
だからまったく同じものが作れなかったりする。
藤幡
ええ、値段も高くなると思います。もうひとつこのアッテネータと出会ってショックだったことは、レコードやCDを聴いていると普通曲の終わりでフェイド・アウトしますよね。それはまるで歌手も演奏者も遠ざかっていくかのようです。でも、こういった良いアッテネータを使うと音が小さくなるだけで遠ざかりません。そこに空間が残っている。これはショックでした。たぶん身体的には、音が小さいということは音源が遠い場所にあるということだと記憶していて、だからヴォリュームを下げることで音源が遠くに行くと長い間納得していた。でも、このアッテネータでは音量を下げても音源は遠ざかりません。ということは、ここでは音の空間性と音量の強弱の問題は別々の問題なんです。このことに気づいたとき、ミキサーたちが勝手にヴォリュームをコントロールしているのは、いかがなものかと僕は思うわけです。
細野
痛いところを突かれた(笑)。確かにそうだよな。
藤幡
ライヴだってマイク1、2本で録ることのほうにはるかに意味があると思います。
細野
でもね、デジタル技術に振り回されているミュージシャンはあまりいないんだよ。逆に例えばオーディオ・ケーブルの素材、太さ、あるいはそこに水晶を載せるようなオカルト的な音の追求(笑)といったことをあちこちで聞きます。僕もRCAのリボンマイクで同じ経験をしているわけだよ。
藤幡
細野さんもいろいろなレヴェルで楽しんでいますよね。
細野
逆にこれまでになかった楽しみが増えたよね。昔に戻るのではなく、昔のやり方を96khzで録っていくという融合が面白くてしょうがない。
藤幡
やはり一周まわっていますね。
細野
まわっているね。一周まわって同じ場所というのではなく、次元が変わっている。
藤幡
そうそう。1940年代、50年代に本当の意味でのハイファイを探求していたのは、基本的には電話屋さんの人たち、人間の声を正確に伝えることを使命としていた人たちで、彼らは声は視覚映像的なものよりも伝達性が強いと考えていたわけです。彼らはその次に、映画館で台詞がはっきりと鑑賞者に聞こえるように、今でいうと2~3Wのアンプに感度の高いスピーカーをつけて、しかもスクリーンの後ろから鑑賞者側に音声を伝える努力をしていたんですよ。
細野
面白い話だなあ。そこにある移動映画館用のスピーカーと同じようなものだね。
藤幡
アルニコ・マグネットとかが付いているスピーカーですか!
細野
そう、すごくいい音がする。
藤幡
映画館では、そういった感度の良いスピーカーでスクリーンの裏からガンガン鳴らすという目的でやっていたので、実際に視覚映像よりも声のほうがよっぽど立ち上がっていたと思います。すでに死んだ俳優の声も、まるでそこでしゃべっているかのように聞こえるわけですから、その力はたしかにヴィジュアルよりも強くて重要だったはずです。細野さんは何作品か映画音楽の仕事もされていますけど、映画と音の関係についてはどのように考えていらっしゃいますか?
細野
映画の場合では、例えばスティーヴン・スピルバーグが『1941』(1979)という、音楽と効果音(Sound Effect/SE)で溢れ返っているような自作ついてインタヴューに答えていました。コメディ映画だったのですが、SEがうるさすぎて観ている人が皆耳をふさいだという逸話がある。この映画はそれゆえ大失敗で、これがあったから次のステップに進めたというようなことを話していた。とにかく音や音楽が多すぎる映画っていうのがあって、だから僕が映画の音楽を頼まれたときは、なるべく音楽を少なくしてもらいたい、極端に言えば音楽はないほうがよいとときどき言っています。音楽に限らず、映画の音ってすごく繊細だから、音楽と同等かそれ以上にSEも大事だと思います。
藤幡
それは同感です。僕は教えている大学の関係で映画の音作りをしている人々と接点があるのですが、異なる3通りほどの音に関するディレクターがいないとダメだということがわかります。つまり「声」と「SE」と「音楽」ですね。今はひとりが全部をやっているケースが多いんだけれど、本来は全然別の才能ですから、分業でないとダメなんです。場の雰囲気を作るとなると必ずこの3つの仕事が必要なのですが、それが仕事としてきちんと認識されていない風潮がある。