■68年から学ぶこと

松本
その意思はありました。《薔薇の葬列》の制作の動機づけは68年のパリ5月革命でした。

宇川
激動の時代でしたね。

松本
ええ、本当に激動の時代でした。それまでの時代が築き上げてきた物事の見方、感じ方、価値観の窒息しそうなパラダイム自体をぶち壊したいという、若い世代の衝動的なエネルギーが充満していたわけです。そういう状況があって、パリ大学ナンテール校の学生たちから火が噴き出して学園紛争が起きました。それからは枯れ草に火が燃え移るように、一気にヨーロッパからアメリカ、日本に至るまで、世界的に広がっていったわけです。

宇川
前年の67年のアメリカでは、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーを中心に「ファースト・サマー・オブ・ラブ」が起こりました。銃を捨て花を掲げるヒッピーイズム、フラワームーブメントがかたちになった時代でもありますよね。

松本
ひとつの対抗文化の頂点をつくりあげた時代ですね。

宇川
そうですよね。日本でも全共闘運動、大学闘争がありました。

松本
ええ。日本の場合は70年安保、つまり60年安保の10年後の自動延長という政治課題が直前に迫り、このことも紛争の引き金になりました。

宇川
表ではヴェトナム戦争も起こっていますし。

松本
はい。しかし、本質的には文化の枠組みそのものの変換を欲求する運動だったので、そのイメージをなんとか表現したくなるわけです。それは単に、物語の中身が変わるだけではすまない問題で、それを表象するあり方も、見方自体を含めて変わっていかなければならないのです。そうすると当然、映画というもののあり方も変わってくるわけです。僕の場合は《つぶれかかった右目のために》(1968)や《薔薇の葬列》がそのよい例ですが、なかでも一番大きな焦点は、映画の「時間」構造を変えようとしたことです。クロノロジカルな時系列をばらばらにしてし、いわば美術におけるキュビズムがそうしたように、上下左右遠近の違う視点からそれらをコラージュのように再構成したのです。しかし映画では前例のないことでしたから、暗中模索でした。

宇川
確かに当時前例はなかったですよね。《薔薇の葬列》が重要だったのは、69年の時点で物語の時間軸を解体し、再構築を行なったことだと思うのです。例えば、2001年のデヴィッド・リンチ監督作品《マルホランド・ドライブ》の、回想と空想と夢と映画的な現実が入り乱れる構造は、すでに《薔薇の葬列》で採られていた手法で表現されていると僕は思いました。その後、北野武監督の《TAKESHIS'》(2005)という映画が上映されました。この前先生とお話をしていて、北野映画では世間から最も駄作とされている《TAKESHIS'》が一番好きだと意見が一致しましたね。《TAKESHIS'》とデヴィッド・リンチ監督の《マルホランド・ドライブ》、そして松本先生の《薔薇の葬列》というのは、ひとつの文脈の上にあると僕は思うのです。

松本
それはありますね。

宇川
30年以上の時を経ていまだ文脈が続いている。そしてその原点が《薔薇の葬列》である、と。これはすごいことだと思います。《薔薇の葬列》は当時劇映画として公開されましたが、観客の反応はいかがでしたか? すごく興味があるのですが。

松本
評価は二分しました。一方に「まったくわけがわからん」「ふざけやがって」という反応。他方ではすごく褒めてくれるもの。ともかくいろいろな見方に分かれて侃々諤々でしたね。でも本当に理解されるようになったのは、80年代、後のポストモダンの時代になってからで、「すでに60年代末に引用やコラージュによる手法があった」と言われるようになったわけです。

宇川
《薔薇の葬列》の文法は本当にポストモダン的ですよね。

松本
昨年は68年から40年が経った年でした。この間に68年の再評価が進み、たとえばパリではパリ5月革命から40年を記念する行事もあちこちで行なわれました。ルーヴル美術館のオーディトリウムでは、「ルプリーズ(反復・再生)」というテーマのイヴェントが行なわれ、J=L・ゴダールA・ウォーホルはじめいろいろな作品が集められました。僕の作品は《つぶれかかった右目のために》と《薔薇の葬列》、あと《エクスタシス》(1969)と《エクスパンション》(1972)の4本が上映され、シンポジウムが行なわれました。そこで問題となったのは、引用と変形、解体と再構築という問題です。

宇川
そうでした。《薔薇の葬列》では、ヒッピーが《エクスタシス》を部屋のなかで上映して観る、という引用がなされていましたよね。

■オリジナルと引用──創造のオルタナティヴ

松本
そうです。そしてまた2年後くらいに電子的技術によって《エクスタシス》に色をつけたり変形を施し、それが《エクスパンション》(1972年/16mmフィルム、カラー/14分)という違う作品になります。このように、いろいろなイメージの再引用、組み替えと組み立ての原理がひとつのテーマとなったわけです。これは、西洋における、無から有を生み出す天才的「創造」観や「芸術」観に対する抵抗でもあったのです。

宇川
ミュージック・コンクレートやコラージュの手法が広まってはいましたが、サンプリング・カルチャー以前ですし、まだまだ視覚的表現は100%のオリジナリティが求められていた時代、でもあったワケですね。

松本
しかし、ロラン・バルトが「作者の死(La mort de l'auteur)」(1968)というエッセーで指摘したように、ものというのは、長い歴史の文化的なDNAがいろいろなかたちに組み替えられながら生まれてくるのであって、無から何かを生み出すというのは、ある意味で理想主義的な純粋化でしかないわけです。芸術というのはそういう成り立ち方をしているわけではないという意味での抵抗だったということです。パリ5月革命40年記念のイヴェントでは再びこうしたことがテーマになり、映画だけではなく、美術分野の作品も集められていました。映像関係のトップバッターは《ゴダールの映画史》(1988─98)でした。ゴダールはこの作品でも本当に縦横無尽に物事を関係づけていきます。そういう意味では、従来の歴史観とは非常に異なる、オルタナティヴな創造的な歴史が浮かび上がってくるのです。
こうしたことを契機に「映像における創造」がいろいろな角度から問い直される必要があるだろうと思っています。

宇川
そうですよね。いきなり現代の話になってしまうのですが、インターネットでは動画共有サイトが隆盛しています。先生は「YouTube」や「ニコニコ動画」をご覧になったことはありますか?

松本
ええ、「YouTube」には《薔薇の葬列》なども出ていましたね。いったいどこから持ってきたのかとも思いますが、僕としてはあまり目くじらを立てるつもりはありません。

宇川
それから、去年でしょうか。パリで先生の上映会が行なわれたときに、そこのキュレーター氏が、松本先生の作品を「YouTubeで見て知った」と言っていました。あれはおもしろい話ですね。

松本
いろいろなことを考えさせられますね。

宇川
実際、そういった各国のYouTubeヲタ的なオーディエンスをも対象にして、松本先生の実験映像が現在世界中で公開されているわけです。2005年に僕がパッケージ・デザインをさせていただいた『松本俊夫実験映像集 DVD-BOX』がリリースされましたが、「YouTube」にあるほとんどの映像があのDVDからアップされています。昔は「イメージ・フォーラム」などでの特集上映会がなかったら日の目を見なかったような実験映画の名作も、すでにたくさん見ることができるという現実があります。

松本
観点が少し違うかもしれませんが、従来の「著作権」という概念はもう崩れかけていますよね。そこで、「著作権とは何か」ということを新たな視点で考え直す必要があるわけです。つまり、著作権というのは近代の産物だと思うのですが、近代のシステムが壊れていくのと同時に、守りきれなくなっている。作者概念も変わってきているし、著作権の根拠も揺らいでいる。「YouTube」などは否応なく近代システムを解体しているのです。僕は売れっ子ではないですから一向に構わないですが、売れっ子は大きな打撃を受けますよね。

宇川
さらに「YouTube」や「ニコニコ動画」では「MAD」と呼ばれる手法でリ・エディットをし、言ってみれば先程話題に上がった引用とその再構築をデジタルネットワーク上で表現をしているキッズたちがウヨウヨ湧いています。これまでは業界全体で「MAD」作品に対して削除の動きをとってきましたが、角川グループは、自社作品が好意的に活用された場合など、内容によっては作者に「公認バッジ」を与えて公開を許可するという方針転換を行なっています。これは従来の著作権とコマーシャルという概念自体をめぐるかなり大きな一歩だと思っています。

松本
そうせざるをえなくなっているということでしょうね。しかし、先ほど述べたように、引用や変形などはそもそも表現手法としておもしろい可能性をいっぱい持っているわけです。ところがそれは著作権の侵害だと抑圧されつづけ、結果としてそういう表現が消えていっている。ですが、そうした考え方は欧米の価値観から強く出てきているものであって、アジアや日本もそうですが、別の文化的な価値体系もあるのです。たとえば和歌には昔から「本歌取り」という技法があり、本歌の特徴的な一部をそのままにしてほかの部分を改作するといったような、部分的に変えていくことのおもしろさに価値を見出しているようなものもあります。

宇川
リ・ミックス、リ・エディット、マッシュアップなどの暴力的ともいえる解体/再構築の快楽ですよね。