■型、編集、ポスト・クリエーション

松本
変形、組み替えを非常にウィットに富んだ方法でやり、「おもしろい」と評価される。あるいは、歌舞伎などでもそうですね。役柄やストーリーを部分的に変えていくわけです。そして、次から次へとバトンタッチしながら別な演目にしていくという方法です。そういう表現のあり方が「盗作」ではなく、文化の「型」としてあるわけです。また、京都などには庭がありますね。庭づくりには「借景」、すなわち「景色」を「借りる」という考え方があります。比叡山がむこうに見えると、あるいは五重塔が見えると、それを構成要素の一部として自分の庭の景観デザインに組み込んでいくわけです。

宇川
「ネタ」として設計に組み込むわけですね。

松本
ええ。「借景」という手法に裏づけられた造園術があるわけです。そういう価値観は欧米にはありません。こうしたことも含めて考えると、これまでの西洋一辺倒な価値観を正す必要を感じるのです。

宇川
要するに「借景」とは、風景自体を自分の表現の「ネタ」として一度拝借し、それを編集していく行為になるわけですよね。

松本
編集はそもそも選択し、組み替えていく作業ですから、無から有を生み出すオリジナル至上主義とは違います。

宇川
映像の歴史を早送りで見てみると、近年動画共有システムが広く浸透するようになって以降、無から有を生み出すというよりも、編集という行為自体を自らのクリエーションに置き換える「ポスト・クリエーション」的な欲求がすごく高まっている機運を感じます。そのようなことを背景に、再び「アヴァンギャルドとドキュメンタリー」という概念に基づいたその手法が、いまネット上で繰り広げられていると思うのです。

松本
たしかにそうですね。

宇川
実はもう全盛期を過ぎていると思いますが、「MAD」という手法や概念に則れば、中心にあるアイコニックなシンボルは不特定多数の鑑賞者と共有できる作品でないといけないと思うのです。そうでないと、エディットした元ネタがわからないので、「エディットのなかに創作が眠っている」という「ポスト・クリエーション」の核心を共有できなくなってしまうわけです。ですから、金閣や五重塔、三十三間堂のような大ネタを「借景」しないと共有できない。だから「MAD」の現場では「エヴァンゲリオン」だけではなく、「ドラえもん」や「サザエさん」や「アンパンマン」など、不特定多数の人と共有できるアイコンを解体していくという行為が繰り返し行なわれているのだと思うのです。そしてその過程で無意識にアヴァンギャルドを体現してしまっている、という現実があるのです。
またそれとは別に、ライヴストリーミングという生の映像を共有する技術にも注目しています。今日いらしているみなさんのなかにも、たとえば「USTREAM」などを見ている方がいらっしゃると思います。国境を越えて映像と時間を共有するライヴストリーミングはまさに究極のドキュメンタリーであり、その裏側で行なわれているのが「ポスト・クリエーション」としての「MAD」なのだと思うのです。現在はこのようなパースペクティヴで「アヴァンギャルドとドキュメンタリー」が成立しているのではないでしょうか。

松本
60年代と大きく異なるのは、アヴァンギャルドもドキュメンタリーも、究極の匿名性によって成り立っているということですね。撮る側の意思に何らかのフィルターはほとんどなく、撮られる側にもない。これまでと違う大文字の人間が個別の眼差しを超えてものを見ているとでも言えばいいでしょうか。

宇川
もう、ただ糞尿のように垂れ流しているだけですよ(笑)。

松本
ですから、「垂れ流しているだけ」ということの匿名性、無意味さが逆説的に意味を持つ場合があるわけです。

宇川
ええ、実際にそうなっていますね。

松本
街頭の監視カメラにそれに近い眼差しを感じます。ジガ・ヴェルトフの「レンズの眼」ですね。つまり人間的な意思の存在しない眼差しでものを見るということが、それがあたかも可能に思えるシステムとしての監視カメラや、宇川さんのおっしゃるメディアによって成立してきた。
完全に匿名的な光景というのはまったく脱文化的なもので無意味なのですが、無意味だということが持つ意味があり、それが逆説的に文化と非文化の狭間で何かしら偽装的な意味を持ってくるような気がします。

宇川
現在、たとえば定点カメラの映像が広く公開されています。日本でいえば、富士山を延々と撮影して、その映像をただインターネット上に垂れ流している人がいます。「いまここ」という、文字通りの「時間」と「現場」を共有できてしまうのです。一方「USTREAM」では「5匹の子犬たちの成長と犬小屋をただ延々と固定で撮影しているだけ」という映像などが流れています。かつてのクリエイティヴィティとは明らかに異なりますが、そのサイトに行って映像を見たいという欲求を掻き立てられる。潜在的な里親心が宿ってしまうとでもいいましょうか(笑)。実際にアクセス数もとても多い。このように「リアルタイムの映像」を媒介に、国境を越えて現実の時間を共有できる現場がライヴストリーミングにはあるわけです。これは、現代のテクノロジーを媒介にして、映像に宿った今世紀的なアウラの表出だと考えています。

松本
なるほど。

宇川
また、「YouPornMate」というサイトがあります。いまはラップトップ・パソコンにもカメラがついていますよね。このサイトには、世界の女性のベッドルームにあるラップトップ・パソコンの前で座って待機する、下着姿の女性が常時100人以上集まっています。そしてこのサイトにアクセスした複数の男どもとリアルタイムでチャットを繰り返し、擬似的な合コンをするわけです。50対1とかのムチャな男女比で(笑)。さらにそこで意識が共有されれば、客はクレジットカードの番号を打ち込み、別室に入って露出された身体を見せてもらうなどというハイパー・エロティック・コミュニケーションが行なわれるわけです(笑)。「USTREAM」を含め、さまざまな方法で行なわれるドキュメンタリーが、ここまで重要性を帯びた時代はかつてなかったと思います。こうしたドキュメンタリー、国境を越えた時間の共有という時代的特徴において、映像が果たす役割はすごく大きいと思いますが、先生はどのようにお考えになりますか?

■見ることへの虚無感、あるいは劇場化する映像

松本
たしかに宇川さんのおっしゃる通りだと思うのと同時に、それを無限に展開していったときに生まれてくるドキュメントの集積が、逆にフラットに無意味化するという極点が少し想像されます。ヴィデオが生まれて間もなく、いくつかのコンクールの審査や批評を頼まれて、何日もかけて延々とプライヴェートなヴィデオ・ドキュメントを見せられているとき、それに似たフラットな世界を強く経験しました。

宇川
それは80年代初頭ですか?

松本
70年代の半ば頃でしたね。ナム・ジュン・パイクは「自分はそういうものは見ない、見ていたらきりがない」と言っていました。ある限定された量においてはいろいろな意味を持つけれども、1日に撮られているヴィデオの量は膨大にあり、人生が何回あってもそのすべてを見ることはできないと言うわけです。大量の情報が見ることへの虚無感を生み出すという、彼一流の、皮肉を込めた逆説ですね。

宇川
ビデオアートの開拓者である、あのナム・ジュン・パイクがそれを言っているのはおもしろいですね。

松本
ええ。パイクは「見ない」と言ったのです。そして、自分が撮ったものもたくさんありすぎて見ないし、自分のインスタレーションなどで使っている、テープで撮った作品も、作品をつくり直し、別のヴァージョンをつくるとどんどん短くなっていくと、冗談めかして言っていました。長さの問題も含め、膨大な情報量がある一定の限度を超すと情報としての意味を持たなくなるということが起こるのは事実です。

宇川
特にネット上に転がっている情報は、膨大すぎて受け手に見ようとする意志がないと立ち現われてきませんからね。検索して、さらにそこから選び採らないと「見えない」。要するにほとんどの情報はありすぎてないのと同じですよね。

松本
日常と逆にある極点として、衛星放送のことを考えたことがあります。1991年の湾岸戦争のときです。地球上のあるひとつの場所で起きているこの戦争を、地球上のほとんどすべてに近い数の人々が一斉に見ているわけです。まず直感的に「これは異様な光景だ」と思ったことを覚えています。それ以前のテレビでは1972年の「浅間山荘事件」がありました。日本中が釘付けになったわけです。ひとつのことが共有される体験を通じてテレビのすごさを感じたのです。ですから、テレビの番組個々の問題ではないのです。テレビというメディア、システムが持っているすごさ、恐ろしさを感じ、「これは怪物だ」と思ったのです。

宇川
なるほど。浅間山荘事件以降は、たとえば1979年に「三菱銀行人質事件」がありましたね。世界規模で考えると最初は「アポロ11号の月面着陸」でしょうか?

松本
ありましたね。ですが、なんといっても「浅間山荘事件」でしょう。その伝達が引き起こしたテレビ現象は決定的にすごかった。

宇川
ショッキングでしたものね。湾岸戦争の後はやっぱり「9.11」ということでしょうか。

松本
湾岸戦争以前は、たとえば、ヴェトナム戦争で起きたことが日本に伝わってくるには40時間はかかったそうです。それが、いま起きていることがリアルタイムで全地球に伝わり、ひいては劇場化するといったようなこと、つまり自分以外の人もどこかで一緒に見ているのだという、そういうものの見方が成立する契機は湾岸戦争の衛星放送だったと思うのです。そういう経験は人類史上なかったわけですから。 そしていまでは、いろいろな意味でネットワーク化が進み、インタラクティヴィティが高次化しています。ですから、テクノロジーの変化、それにともなうメディアの変化というのは、良くも悪くも決定的に文化を変えていく力を持っているのです。そこでは、「良くも」ということはどういうことなのか、「悪くも」ということはどういうことなのか、じっくりと考えていかなければならないのです。