秩序とノイズ、技術と表現の弁証法

アートとしての映像の顕著な変化は、古典的な美術、音楽、パフォーマンスといったジャンルの自律性を揺さぶるものとして機能していることにも現われています。ジャンルの境界がボーダーレス化することでお互いに融合し、今までなかったような表現が生まれてくる。そのような状態が次々と表出しているのが現状ではないかと思います。
一方、この多様な展開が表現の価値をフラットにしているとも考えられます。デジタル技術でつくられた社会は、均質化の社会です。ですから、このなかでいくら多様化しようとも表現のヴァリアントは均質的に飽和するだけなのかもしれません。このフラットな状況で、アナログの持っていた面白さがかえって目立つということすら起きている。
デジタル技術の視点は、ニュアンスの連続のなかに生じる非常にデリケートなノイズを、0と1のすっきりした組み合わせにするために切り落としていきます。ノイズというのはある秩序から見た、その秩序をかき乱す異質なものです。いつの時代も、秩序のシステムはノイズを隠蔽する。隠蔽しにくいときには暴力的に排除する。さまざまな文化現象を見る際に、抑圧、排除されているノイズがどのようなものかを認識すると、その秩序の体質が見えてきます。フラットなシステムにはこのノイズを極小化する力が働いており、このことはアートや映像表現そのものの問題に連続しているのです。
技術はつねに進歩主義に取り憑かれ、より古い技術は新しい技術のなかに揚棄されて、1本の系譜に統合されていく。しかし、技術が優れれば芸術も優れるという一定の関係は存在しません。たしかに、新技術は新表現の切り口を用意し、そこからいろいろなことを発想する面白さを生むのだけれど、新技術だけに依拠した新表現は時間の経過とともに飽きられてしまう。技術そのものは高度なものでなくても、想像力が豊かで発想が新しいという場合にはじめて技術基盤との関係を問う意味がでてくるのだと思います。そこをもっと掘り起こして考えないとまずいのではないか。伝統的な映画は、ワン・スクリーンとワン・プロジェクターという単純なシステムのうえに成立していますが、そこに展開する表現世界はピンからキリまで多様です。このシステムを使って作品の新しさや面白さ、深さを展開できた。ところがどうも、その後の技術展開が生んだシステムは、システムそのものが作品化してしまう。したがって異なる作品を生み出すためには、また新しい技術とともに、今までなかったシステムを作らないといけない。それはすごく息苦く、先詰まりになると思います。結果的には、イマジネーションの展開の豊かさ、深さという点では未熟で、最初の出会いのちょっとした新鮮さが時間の経過とともに急速に薄れていく傾向が強い。その価値観でやっていくことにブレーキをかける必要があるのではないかと思います。

松本俊夫

引用/継承、創造的なリサイクル

発想の面白さでいえば、メディア・アートのジャンルでは岩井俊雄(1962─)さんがいます。彼の作品に《時間層(Time Stratum)》シリーズ(1985─)があります。簡単に言えば、物体そのもののアニメーションなのですが、かといって物が実際に動いているわけではなく、そう見えるようにできている。映画前史のフェナキストスコープやゾーアトロープと呼ばれるアニメーション原理では、連続するコマとコマがスリットで遮断され、残像にコマが重なった時に動く像として知覚されます。黒い闇の部分がないと像は流れてしまいます。映画でも映写機のシャッターが回っていて、シャッターが閉じている時にフィルムが送られ、開いた時に映すという動作の繰り返しで、不連続のコマが連続した動きとして知覚されるのです。岩井さんはこれを新しい技術、例えば、テレビやヴィデオのモニターでやってしまう。モニターは1秒間に30フレームのまばたきをしています。まばたきはアニメーションにおける黒い闇と同じで、立体でアニメーションをやっているわけです。特に、ものすごく新しい高度な技術を使っているわけではない。ところが、すごく新鮮だったのです。彼のコンピュータを使った作品も、既存の技術原理をよく知り抜いたうえで引用しながら変形している。前例を踏まえて継承しながらも、面白い別の新しいものを生む。これは重要なのではないかと思います。創造的なリサイクルがそこにある。
先に触れたように、西洋的なオリジナリティや創造性をめぐる考え方は、メディアの固有な自律性、純粋なオリジンを問うものです。そこでは過去が混じらないほどよく、無から有を作ろうとする。ところが、無から有ができることは実際にはないのです。僕らがものを認識する視点は、環境や物の見方や知識や記憶の体系などさまざまなものの習得によって成り立っている。ロラン・バルト(Roland Barthes、1915─1980)は1968年に「作者の死(La mort de l'auteur)」というエッセーを書きました。作者の位置を形式化し、オリジナルなものを生み出す天才であるかのごとく扱う近代の芸術観、あるいは芸術家観への批判を示しました。祭壇上に祀りあげ、一般の人とはまるで違う才能があるとするような態度が疑問視される。作者の意図にどれだけ近づくことができたかが作品理解の深さを示すという見方が揺さぶられたのです。ほぼ同じ頃、寺山修司(1935─1983)は「半世界」と言いました。作者は作品の半分を作り、半分は観客が作る。彼も同様に、一個人としての天才が無から有を作るという創造神話に強く抵抗しました。18世紀半ばから続いた近代西洋の芸術原理が、現実から乖離した観念的世界を造り上げていたのではないかという懐疑が噴出したのがこの頃の特徴です。 ところが、西洋文化圏の外にはそのような原理と異なる例がたくさんあります。日本では和歌や連歌に「本歌取り」という技法があります。西洋文化でいうオリジナルの「本歌」の1、2句を引用し、それに続く句を自作して別の歌とする。近代のオリジナル主義からすると盗作といってもよいくらいの仕上がりになるわけです。歌舞伎では世界や趣向を変化させたり、同じ名前の登場人物の役どころを代えながら新機軸のストーリーを展開させてゆく手法があります。日本庭園における「借景」も遠くの景色を背景として自分の庭に取り込んで空間構成する手法で、まさに「本歌取り」を空間化する手法だと思います。このように思考を一巡すると、西洋近代の芸術原理は多彩な価値の一部であったことがわかります。