評価の凹凸を求めて

作品や批評は、惰性化した習慣的なシステムや、コード化され固定化されたものの見方、つまり「制度」と呼ばれるものを絶えず壊そうとしています。非創造的なシステム、コードに対して創造的なものをぶつけようとするこの態度は永久革命的に継続するもので、到達点がありません。すなわち、そこではプロセスが大事なのです。制度はいつまでも惰性的に秩序の安定をはかろうとしますから、その止まってしまう部分を揺さぶることに実験的な作品や批評の意味があるのです。
しかし、近年急速に批評の場がなくなってきているという事実があります。例えば、いろいろなところで書いた文章をまとめても、売れないから本にできない。批評、ジャーナリズムに対して読者が反応し、作者と観客とをつなぐ共同性の枠組みが機能してきた過程はこのまま終わってしまうのだろうかと、大きな危惧を抱きます。特に映像のジャンルは、情報はあるけれども、批評的な言語が希薄です。こうした言語離れも、新技術中心主義下のアート、映像作品のクオリティの変化と関係している。
アートが一種のデータ、情報として理解、利用される傾向が強くなると、価値がフラット化するシステムの拡大が加速化します。こういうこともある、ああいうこともあるという、ただのフラットな状況に対して、ある種の見方のぶつかり合いが欲しくなってくるのです。批評によって評価に凹凸ができてくる。どれが正しいとかではなく、結論を出さなくともさまざまな反応の波が立っている必要があるのではないかと思うのです。アートとフラットな情報社会が交差する現在のような状況は、歴史的な体験も短いだけに、今後どのようなクリエイティヴィティが生まれてくるのか、興味を持ちつつも懐疑的にならざるをえません。
そのような世界に依拠して創造される作品をどのように考え、捉えていくかということは今後とても大きな問題になるのだろうと思いますし、美術館、特に企画の視点によって適切なコンテクストが与えられれば技術と創造の新しい揚棄のかたちとしてモデルになるのではないでしょうか。
こうした時代に開催されるこの「第1回恵比寿映像祭──オルタナティヴ・ヴィジョンズ」がその足掛かりになれば、非常に意味のあることだと思います。