■自然史における倫理は可能か

榑沼
平倉さんが指摘したように、ベルクソンの言葉を使っていえば、ショックという概念も混合物です。いろいろな質的差異に沿って区分していかなければいけない。例えば、渋谷のスクランブル交差点を歩いているときに、大勢の人がどんどん押し寄せてくる。あるいは、街を歩いていて、信号がぱっと変わったり、車が飛び出してきたり、ネオンサインや液晶モニタからいろいろな色の光が押し寄せてくる。近代の都市生活というものは、そうしたショック経験が標準化した状態だとベンヤミンも指摘していました。しかし、こうしたショックとは区分されるショックもあるはずです。例えばドゥルーズが『差異と反復』で、世界には再認の対象と遭遇の対象があると述べている。遭遇の対象とは、われわれに思考することを強いる対象のことです。これは先ほどの情動の問題と関わっていて、遭遇の対象は、驚きや悲しみといったいろいろな情動がともなって経験される。思考と情動と対象が重なり合った多重システムが描かれるわけです。こうした思考を強いる対象に遭遇したときのショックもある。
いろいろな資料を調べてみてもギブソンとドゥルーズに接点はありません。ただ、ギブソンがさりげなく最後の著書で「情報」という言葉を定義しているのですが、彼はシステムを活動させる(activate)ものが情報だと言います。ギブソンですから、システムとはまず知覚システムのことだとは思います。しかし、ギブソンはチカクチカクと繰り返していたわけではありません。おそらくはいろいろな層のシステムの駆動を考えていた。僕がいちばん大事だと思っているのは、ギブソンが知覚と同時に思考を考えたということです。1950年の著書である『The Perception of the Visual World』でギブソンは、別に私は知覚を人間の精神のいちばんの機能として重視しているわけではない、思考も同時に重要だと言っています。しかしながら、ギブソンはすごくユーモラスな人なので、ここに少し冗談が入ってきます。考えるためには、私は椅子を知覚して、歩みを止める必要があるし、そこに座る必要があると言う。つまり、思考といっても内面の営みには押し込められず、知覚する身体の行動が伴った条件下で、はじめて思考システムが作動するということです。思考システムを作動させる知覚の条件を探ることが重要だと、ぼくはその部分を読んでいます。ここは柳澤さんが提起した問題にも密接な関係があると思う。
もう1点だけ。32×32ピクセルという解像度のお話にすごく関心を持ったので、平倉さんにお訊きしたいと思います。以前、ある航空会社のフライト・シミュレーターに乗せてもらったことがあります。2001年9月11日の1週間後に予約していたので、これはだめになるかもと思っていたのですが、なんとかギリギリで体験させていただきました。コックピットに座ると、前面のガラス部分には何も投影されておらず、グレーのスクリーンになっていました。訓練の先生が「榑沼さん、これからスクリーンに羽田空港が現われます」と言いました。スクリーンに現われたイメージの解像度は想像を超えてすごく低かった。シミュレーターは現実に近い、すごい性能のものかと思っていたけれど、そうでもないんだなと思いました。けれども次に、「榑沼さん、これから羽田空港に降りていただきます」と言われたんですよ。「え、免許持っていないんですけれど……」と言っても、いえいえ、降りていただきます、と。見学のつもりで来たのが、えらいことになってしまった。そして降りていったのですが、解像度のレヴェルがだんだん変わってくるように感じました。解像度が低いなんて感想を言っている暇はない。この話は長いわりに要点はひとつです(笑)。ピクセルの解像度というものも混合物ですね。知覚の現実感の由来は知覚を受け継ぐ身体運動にあると、『物質と記憶』のなかでベルクソンも述べていたと記憶していますが、解像度もどのような行動をとっているのかで相当変化すると思うのです。平倉さんは先ほど、リンチは私にとってそれほど解像度の高いものではなかったという、また違うレヴェルの解像度の話をされていたと感じます。そのあたりをもう少し詳しく伺いたいと思います。

平倉
イメージの解像度が低くても、それを端緒にした動く状態は変わってくる。ですから動くことでつかめる実在性というものもあるでしょう。リンチの映画は私にとって解像度が低い、という言い方はやや比喩的だし、ある種の挑発として言っているところもあるのですが、それは動けなさの経験とつながっています。柳澤さんのおっしゃるように、リンチの映画は探索を不可能にする。探索しようとする気持ちをシャットアウトするようにできている。「私」はつねにすごく狭いところに閉じ込められた状態にあって、このよくわからない連続を見ることになる。ポジティヴに見れば、そのよくわからなさの経験のなかに思考という経験が立ち現われるとも言える。一方で、人間が決定不可能な状況に陥ることを作るための技法には、まだまだいろいろなものがあるはずです。それは言い換えれば、人がどういうときに本気になりうるのか、という問題でもあります。私にとっては本気になっている状態こそが倫理的なのですが、例えば飛行機を着陸させなければいけないときはものすごく本気になるでしょう(笑)。

榑沼
汗をかきましたよ(笑)。

平倉
そのときに、知覚システムと行為システムが、すごく際立ったところで接続して、なにがしかの現実的行為が解として産出される。わかることとわからないこと、動けることと動けないことのせめぎ合いのなかから、どう動けばいいかを知るための時間はけっして与えられないにもかかわらず、なんらかの動きが産み出される。そのことと、映画の観客としてリテラルに動けない、探索できないという行為不可能性の状態とはやっぱり違っているのです。動けない映画館であっても、せめぎ合う複数の行為の決定不可能性のなかから、観客をひとつの行為へと奇跡的にもたらしてしまうような映画はある。リンチの映画を観ていると、なにかこちらももう少し本気になりたいと思う。本気になる代わりにショックがあるのではなくて、本気になることにショックがあればいいのにと。

大橋
それと関連すると思うのですが、榑沼さんのおっしゃる「解像度」とは英語では「resolution」という単語ですが、この単語は同時に「決意」や「決断」を意味しますよね。ですから、ある決定をすることとそのときの解像度とは文字通り対応している。それがresolutionの原理ではないかと。先ほどエフェクト(effect)について述べましたが、情動はそれと少し似た単語で、affectといいます。少し乱暴な言い方をするなら、ものの次元においてエフェクトといわれるものが、人間を中心に適用していくとアフェクトaffectになり、そういったものがある程度組織されていくなかで、アフェクトの対象がその解像度を変えていくという仕組みがきっとあるのではないかと思います。そこで、リンチの話に戻ってみるならば、リンチの映画がぼやけていて救いがないという観察から、「ぼやけているだろう。だから救いがないんだ」というリンチの、あるいはリンチの映像の意味を見出すことができるのではないでしょうか。つまり、バークリー的に考えるならば、ちゃんと見えていないことは倫理的にも間違えの原因になる。言い換えれば、触覚可能性が漠然とした仕方でしか与えられないとき、像がこれだけぼやけているから、これだけ物事がぼやけてしか追いかけられないのだから、いいことなんか起こらないよね、という解像度の低さなのではないか。リンチはそれをあえて意図的に撮っているのではないかとさえ思うのです。

平倉
お話を聞いていて、リンチ以外の作家を誰か導入できないかと思っていたのですが、先ほど榑沼さんからジェームス・タレルの名前が挙がりましたね。タレルの天窓の作品がもたらす、どこにあるのかわからない不思議な光の構造は、この解像度の問題になんらかの理解をもたらすと思います。あの天窓の枠は、縁(へり)の部分がものすごく細く作られている。その結果縁が1本の線になってしまっている。窓の枠は普通、私が移動すれば壁や天井の厚みとして見えてくるけれども、タレルの場合はそれが見えない。だから私の行為とは連動しないような光の窓が、どこでもない場所に浮かんでいるように見える。タレルの光を見ているときにはそこで起きていることがよくわからない、つまりそれに対して行為ができないということです。行為ができないということを、その縁の研ぎすましという操作によって作りあげている。わからなさを作りだすための、すごく解像度の高い技術というものがあるはずで、そういうものを見るとこちらの身体も喜ぶし、本気になる。

■本気になる倫理性──旅する知覚

大橋
そのことと遠回りにねじれて絡むと思うのですが、レンブラントの絵が後年期にぼけてくるというときのぼけ加減とリンチのぼけ加減というのは、質的に一緒なのかどうなのか。その質の比較が重要になると思うのです。

柳澤
おっしゃる通りです。リンチのピンぼけとレンブラントの晩年の解像度の低さは、まったく異なる質を持っています。リンチのほうはひたすら観者に閉塞感を与えるわけですけど、レンブラントのほうは、何か観者の思考を喚起するからこそ内面的だとか瞑想的だとか言われたといえるのかもしれない。
こうして話がうまく繋がってきているなあと思ったのですが、先ほど榑沼さんが思考の条件としての知覚という話を出されて、情報システムをアクティヴェートするその条件を探るために、ギブソンは知覚の問題に熱心に取り組んだのではないかとおっしゃいました。若い頃のギブソンは社会心理学が対象とするような「アーリア人神話」の成り立ちやユダヤ人差別についても研究していました。彼の関心は間違いなく社会問題にあって、科学は社会問題に関与すべきだと考えていた。それがどういう経緯だったかは失念してしまったのですが、第二次大戦後、知覚理論に専念するようになり、非常に原理的な知覚理論のみを書物にまとめのだと記憶していますが、彼自身は社会問題へのコミットメントに対する関心を失くすことはなかったはずです。このことと平倉さんの「本気になる倫理性」というものを併せて考えると、おそらくやはり知覚においても、行為者が次にどうするのかという行為可能性を思考するという点が非常に重要だったのではないかと思っています。映像というのは、原理的に観者はなんの行為もできないはずのものであるにもかかわらず、具体的になにを行為するのかという決断=人が本気に思考する瞬間に持っていく。そういう側面があるのかなと思いました。

大橋
榑沼さんの話と全体の流れを聞いて、もちろんそれはユーモアからの自己言及なのでしょうが、ギブソンが椅子に座って思考したという話は、僕にとって結構な驚きでした。襖絵の話のように、動きながらやる思考があってもいいのではないかと思うからです。襖絵を巡って本尊に至るのだけれど、その間にまやかしや幻があったりするような思考があるだろうと。
写真美術館で現在行なわれている展覧会のテーマも偶然同じですが、「旅」という形象もそうした思考を表わす形象のひとつだろうと思います。ダンテの『神曲』でも、地獄に降り、煉獄で浄め、最終的に天国に行くわけですが、最初は皆で押し合いへし合いして酷いことをするわけです。「地獄」「煉獄」「天国」という3つの行程自体は、もちろんキリスト教的な意味を含んだものであり、その意味で旅の形象もそれぞれがある特定の地域なり宗教なりによっているとは思います。とはいえここでは仮に、思考のプロセスとして地獄的なもの、煉獄的なもの、天国的なものがあるとしましょう。そこで、レンブラントとリンチの解像度の違いに戻るのですが、そういうプロセスにおける「地獄」あるいは「煉獄」的な段階で解像度がぼやけて悪く見えてしまう、あるいは実際に悪かったがゆえに人を殺してしまう、そういう段階的な「悪い」なにかがあるのではないかと僕は思います。僕自身がバークリーを引いて言いたかったのは、旅の可能性を担保することによる認識の可能性があるということです。旅の結果、例えば旅先で不要に外国人扱いされたり、見ず知らずの人に脅されたりして、旅における経験が悪いものになることも避けがたいときがあるとは思いますが、それでもバークリーは旅自体の可能性は、知覚がいかなるものであれ担保できると言ったのではないでしょうか。

榑沼
よくわかります。そこにはデカルトとの対比がある気がしますね。デカルトは若いときに、一度は学問を捨てて戦場に出ている。それこそ生か死かというところに自らを置いて律しようとする。ところが、戦争というものが、どうも自分の思考を鍛える場であるどころか、昔から変わらない悲惨なものでしかなかった。結局ひとりで籠って『方法叙説』につながる哲学を展開していく。このデカルトに焦点を当てた小泉義之さんの『兵士デカルト──戦いから祈りへ』(勁草書房、1995)はぼくの好きな本のひとつです。バークリーの人生はよく知らないのですが、バークリーがもし旅をして考えていたということであれば面白い。もうひとつ言うと、ギブソンの『The Perception of the Visual World』は、それこそ第2次世界大戦時のパイロット研究の総括ですから、椅子に座ることが思考の条件だと言ったのはギブソンのユーモアだったのではないでしょうか。

平倉
デカルトと戦争、あるいはギブソンと戦争という問題はとても面白いですね。お聞きしていて私が連想したのはウィトゲンシュタインです。彼の日記のなかに、対空砲が森のなかに隠されているという話がある。対空砲は迷彩色で隠されていて、そういうものと上空から出会う話です。つまり認識論的には対空砲はない。けれどもないはずの対空砲が私を殺しうる。どのような認識論においても、「私がこの世界を構成している」というタイプの議論が壊れるのは、世界によって私が破壊される場合だと思います。私が構成しているはずの世界から弾が飛んできて、私が壊れてしまう。それはまさに触覚的な経験でもある。けれども、破壊的ではないような仕方での世界との触覚的関わりというのも考えられるはずです。認識論的には限界があり、私は私の知覚の内に閉じられているにもかかわらず、この世界からなにかを受け取ることができるということがありうる。そういう場での本気さという問題を考えることはできるのではないか。
今日の会がはじまる前に少しプラトンの洞窟の比喩の話をしていたのですが、映像という問題は、つねに私の知覚の認識論的閉鎖性と一体になっている。映像とは、私が見ているものが私が見ているものだ、という知覚のトートロジカルな閉鎖性そのもののことです。だからおそらく、人以外の動物にも映像という問題があるでしょう。蝶が花にとまったつもりが、花ではなくハナカマキリで食べられてしまうという場合がそうです。蝶である私は見誤ってしまうことで私の命を失う。そこには命のやり取りがある。そのやり取りのなかでしかし、私は私ではないような世界と出会っている。それは私が身体を持っているからであり、身体によって接触しているからです。それが喰う/喰われるという破壊的な関係として現われてくることもあるし、喰う/喰われる関係をその内に含むような、さまざまな触覚的接触による交渉として現われてくることもあるのではないか。映像という問題は、そのような接触の境界面上にあるのではないかという思いを強くしています。


岡村
ありがとうございます。それでは次回プレゼンテーションをいただく平倉さん、榑沼さんを中心に、ここからどんな話になりそうかを伺えればと思います。

平倉
仮タイトルは「蜘蛛のスクリーン」です。蜘蛛は目があまり見えないそうですが、代わりに蜘蛛の網を揺らすことでものを知覚している。その蜘蛛にとっての知覚というところから映像の問題を考えたい。冷房のかかった暗い部屋でプロジェクションを観るという、現在の映像の制度的な空間形式とは異なる映像の可能性のようなものを、強引にであれ考えていくことができればいいかなと思います。

榑沼
今日はタレルの作品の話もでましたが、そこではすごく技術的かつ本質的な問題として、縁、エッジが極めて細いという指摘がありました。ジャンルは少し違うのですが、そこから連想したのが、建築家の西沢立衛さんの建築です。西沢さんの建築はエッジがものすごく細く設計されている。東京大田区にある《森山邸》という個人住宅をかつて訪問させていただいたのですが、窓のフレームに偏執的なこだわりが見られる。いかにその部分を薄く調整するか。もちろん構造体ですから、ひとくちに薄くすればいいというものでもない。そのギリギリのせめぎ合いで、かなり本気の勝負をしていて、それにすごくびっくりした。もちろん目指していることからすれば、不十分な解像度を持って立ち上がっているとは思います。一方で、こういう建築に対して行なわれる「白い壁がたくさん広がっている」「ガラス面が多い」、あるいは「西沢さんは透明な建築家である」という評価は、言ってみれば西沢さんのいちばんのこだわりであるエッジを効かせるという部分を消すことになっている。多くの人と似た外見の、それこそ解像度がすごく低いレヴェルでまとめられ、「ホワイトキューブ」という混合物として位置づけられてしまうことがあるのではないか。彼の建築からぼくはすごいオブセッションを感じるので、むしろ黒い建築です。そういうことを、平倉さんの話を聞いて思い出しました。ですから今のところ、次回は建築と映像・知覚、あるいは今日はベンヤミンの気散じの話もありましたらから、都市へと広がる可能性も含ませながら話をしたいと思います。12月までに何があるかわからないので、気が変わるかもしれませんが。

柳澤
今日は全3回のうちの第1回目でした。ラウンドテーブルを構成しているそれぞれの関心や視点──触覚的探索の問題、思考を成り立たせる知覚的条件という問題、さらには「本気になる」解像度を見定めるという倫理的な問題まで、広く深度のある関心──は、ラウンドテーブルの「オルタナティヴ・ヴィジョンズ──映像による世界の知覚と経験」という大きなテーマのもとに非常にいいかたちで連鎖的に重なり、なにかを掘り起こす方途にあるように感じています。またスピノザの『エチカ』に関連して、全体性や必然性に関する話題もありましたが、このような話題を俎上に載せるとき、往々にして主観性の哲学を逃れて自然史という方向性に話が流れて、結果として、非常に現状維持的な、頑張って生きればいいじゃないかという結論になりがちです(笑)。しかし今日のお話が目指すところはそこではなく、ときに暴力的でもある知覚レヴェルで捉えられる世界をつきつめて、部分的にエチカが立ち上がる可能性について考えることであり、そこでもう一歩頑張って、具体的な「映像」・「芸術」作品=ユニットから、より積極的な行動の可能性を紡ぎだしていくことのほうだと考えています。いまから次回のプレゼンテーションと議論が楽しみです。
今日は本当に長い時間、皆様ありがとうございました。

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