岡村
それでは引き続き、大橋さんの発表をお願いしたいと思います。
大橋
よろしくお願いします。僕の専門は300年から400年前、動画がない時代です。ですので、「映像」という観点から少し話を時代的に考え直してみると、例えばそれは光学(optical)という領域での話になってくる。彼らの時代でなにが考えられていたのかを考え直すことは非常に面白いことだと思っています。近年の視覚・認知論で頻繁に参照されるギブソンの「生態心理学」も、いまから紹介するジョージ・バークリー[fig.7]の理論を批判する文脈から出てきている、とも言えます。今回僕の発表する内容は、バークリーのなかでも、おそらくギブソンが間違った仕方で解釈してしまったところかもしれない、と指摘されています。つまり、ギブソンによって括弧に入れられてしまったけれど、今になって考えてみれば、むしろギブソンが考えようとした本質に近い部分なのかもしれません。それでは始めていきたいと思います。
今回僕がとった考えるスタンスは、映像理論を読む、哲学史を読むというものではありません。今回の映像祭をきっかけになにか考えようとなったときに、じゃあ自分はなにを見てきたのか、というところから始めてみたかった。フィルモグラフィ、あるいはパースペクティヴの歴史を構成することではなく、いま見ているこの光景を言語化できるのか、ということにこだわってみたかった、ということです。自分の視界にあるものを知ることは、案外難しいのではないでしょうか。実際、自分はかなり愕然としました。私が見ていると思っているもの、見えていると思っていたものに、じつはなんとも表現のしようがない。視覚の根本が揺るがされるような気がして、結んでいた像が全然結ばれず、ホワイトアウトしていく。そのときなにかものすごく心もとない気分になる。ここで例えば17、18世紀のヨーロッパの哲学者、科学者の体験や思索などを思い出してみると、当然、当時の哲学者たちは進歩しつつある顕微鏡、望遠鏡といったものを前にして、見たことのなかった世界がわっと広がる経験をしていたわけです。そこで現われてきた世界は、宗教戦争のなかの殺戮でもなければ、貴族と庶民のあいだの醜いおしゃべりでもない、いわば人の世のものならぬ多くの物体です。いうなれば、本当に誰も見たことのなかった宇宙や微生物が視覚経験のなかにわっと出てきた。そういう経験をしたことで、視覚の経験が更新される。では、そこにおいて「見ること」あるいは「タッチすること」も更新され、考え直されているはずだ、というところから考え始めました。
最初に述べた、自分には何も見えていないのではないか、という考え方は基本的にはデカルト主義と呼ばれるものです[fig.8]。
感覚的に与えられるものは全部嘘である。でも疑って疑って嘘であると考えても、嘘であると考えている自分は残る。これがデカルトの「コギト」の簡単な規定です。近代初期、デカルトの時代は、ハイデッガーやフーコーの表現を借りれば世界像の時代、表象の時代として知られています。対象と表象の一致という命題が中世にはありましたが、そこから外れて、主体(subject)がいかに表象(representation)を構成するのかが時代の主題になります。絵画のなかに世界をどうやって複製するか。演劇のなかに歴史をどうやって再構築するか。そういった問題がどんどん出てきます。そこにおいて注目すべきなのは、主体がひとつの「眼差し」になる、ということです。思考の主体と視覚の主体とが、光学的な装置を媒介に重ね合わされる。具体的な例として、デカルトの『屈折光学』(1637)のなかの図版があります。これは眼差しの後ろに何かを見ている人がいて、見られている人はイメージを解釈しますよ、というものです。見るとは、見ることを可能にする装置の後ろに見る人を配置することです[fig.9]。
ちなみに、この焦点化のモデルのひとつは、当時の先端技術であったカメラ・オブスクラ(camera obscura)に見出されます。これは、黒い箱のなかに穴をひとつ空けると、光が入って奥に倒立像が写るという仕組みです[fig.10]。
デカルトの『屈折光学』にも登場しますし、それから100年くらい後、啓蒙期の『百科全書』にも当時の比較的新しい技術として紹介されています[fig.11]。
ここでデカルトに話を戻します。「我思う故に我あり」というコギトの命題を少し換喩的に読むならば、世界の中心においてひとりで光を放つこと、あるいは明晰な視点を世界の中心でひとつ確保することだと解釈できます(これは実際は、神の光を反射・反映するものだということも補足しておきます)。その中心となった光の視点から、世界を明確な知識の構築物として再構成していくことになる。いわば主体という焦点=ポイントが、世界を光の眼差しのなかで再構築していく。しかもその主体は、神や天使ではなくて、考える人間のものです。そう考えますと、先ほどのデカルトのコギトの構造が、単純な技術決定論ではないにせよ、カメラ・オブスクラと非常に近い構造にあることがおわかりいただけると思います。暗闇のなかにひとつの点が開く。懐疑のなかにひとつ、「私がいる」という光が射す。そこから一気に世界の像が、反射・反映・反省の結果として現われる。コギトとカメラ・オブスクラ、両者のシステムが極めて興味深い並行関係にあるということは、ジョナサン・クレーリーらが指摘するところでもあります。
こうした視点をもとに、デカルトは物体の性質を、「延長」プラス「運動」として規定します。「延長」は体積、あるいは物の「かさ」みたいなものをイメージするとわかりやすいかと思います。そういった「延長」に、「運動」が与えられて動き続ける物理学的な物体世界がコギトのあとに見出されることになります。
デカルトのこうした心身二元論、つまり物質は動かされるものであり、精神は自分で考えるものだという世界において、見ることが触覚と並行したかたちで論じられているということが、それ以降の感覚論・視覚論のにおけるひとつの大きなメルクマールとなります。例えば、視覚とは何かを考えるとき、デカルトはそれを棒を持った盲人に喩えます。2つの棒を左右の手に持って前に突き出し、片方がもう片方を押している。この押した部分が、距離として持っている手に知覚されるわけです。こうした盲人の例が、デカルトの複数の著作にまたがって出てきます[fig.12]。
端的に言えばこの試みは視覚を触覚化するものです。目に見えるということは、棒で触れることと同じ仕組みに基づいている、と。触覚の光学化がこのモデルによって押し進められます。これがデカルトの、ひいてはその時代のひとつのエピステーメーであることを理解すると、このあとのバークリーの思考が理解しやすくなると思います。すなわち、視覚の触覚化はまた、同時に触覚の光学化をも可能にする思考であり、そこでは視覚が触覚的な仕組みによって説明されるとともに、触覚に対してもまたそれ相応の光学化の可能性が、すなわち視覚との共約可能性が与えられることになるのです。
現代において、デカルトの光学的な認知説に対しては当然ながら多くの反論がなされています。端的に言えば、デカルトの視覚論はとても素朴で、とりわけ眼球と視野形成の分析および論述の正しさに関して不十分なものであったと言われます。他方で、デカルトと同時代にありながら、デカルトを批判しつつ今日にまでつながる有効な視点を提供している人物として、バークリーの名をあげることができます。アイルランド生まれのバークリーは、イギリス経験論の哲学者のひとりとして、ロックのあとを受け、感覚論哲学を完成者させた人物のひとりだと見なされています。彼が残した言葉として、「存在するとは知覚することである Esse est perpici」というものがよく知られています。ある物が実在していると考えられるとき、その背後にはなにかよくわからないがそれを成立させている延長実体、あるいはカントのいう「物自体」があるわけではない。存在するとは知覚することで、知覚されていない物は存在しないというわけです。バークリーのこの考えは後年ベルクソンに、観念のなかに全部を入れ込んでしまったと批判されることになります。ところがバークリーを読んでいくと、必ずしもそうとは言えない。少なくとも、ベルクソンの批判が妥当しない箇所が見受けられます。そこが面白いところなので、少し紹介していきたいと思います。
使用したテクストは『視覚新論』(1732)[fig.13]で、日本語版の巻末にある脳科学者の下條信輔さんによるコメントもあり、現代の観点につながるところもかなり親切に解説されています。帯には「明快な議論」とありますが、本当に明快なのかと悩むくらい、かなり難しい内容のように、僕には思える(笑)。ただ、わかってくると実は明快なのではないか、という気もしてくる本だということが、ここ3年越しくらいで少しわかりました。今回は『視覚新論』のエッセンスを少々紹介します。
まず最初に、この時代に哲学者を悩ませ、哲学史上の一大問題であった「モリヌー問題(モリヌークス問題)」に注目してみましょう。この問題は、先ほどのロックによって提示されたものでした。
「ある生来の盲人が、今は成人して、同じ金属からできたほとんど同じ大きさの立方体と球とを触覚によって識別するように教えられ、その結果両方に触れるとどちらが立方体でどちらが球であるのかがわかる、と想定してほしい。さらに、立方体と球体とがテーブルの上におかれ、その盲人が見えるようになった、と想像してほしい。疑問:彼は、両者に触れないうちに、視覚によってどちらが球でどちらが立方体であるかを識別し言うことができるであろうか。」(G・バークリ『新視覚論』下條信輔+植村恒一郎+一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1990、§132 より、ロック『人間知性論』第2巻 第9章 第8節)
生まれつき目の見えない人がいて、彼の目が開いた瞬間に、球と立方体を識別できるか、と言い換えればわかりやすいでしょう。この問題は一大論争を引き起こし、さまざまな見解が提出されましたが、認知科学が進む30年から40年くらい前までは、正直なところ解けていなかった問題です。例えばライプニッツは、人間は生まれつき幾何学が心のなかにあるから判別できると言います。ロックは、経験によってでしかそういう観念は作りだされないから「言えない」と答える。バークリーはどうだったかというと、基本的にはロックと同じ立場をとっています。ただ、そこからロックよりラディカルな結論を引き出してくる。
バークリーの主張は『視覚新論』の冒頭からも明らかです。バークリーは距離という概念の発生原因を問うことから『視覚新論』を始めています。バークリーにとっては、この概念自体、複数的なものです。「距離」は英語でdistanceといいますが、形容詞のdistanctになると、物と物とが区別される領域・境界線という意味をもちます。ですから距離とは、単純にある物とある物との隔たりなのではなく、隣接した物の境界領域、明瞭に区分される領域も表わす概念です。バークリーが面白いのは、距離を知覚することは媒介的な感覚、二次的な感覚にすぎないと言ってしまうことです。すなわち距離とはじつは見ている人の運動感覚から派生したものに過ぎないのだと。どういうことかと言いますと、ある物を見ていると、眼球がぎゅぎゅっと動きます。横を見るとまた眼球が動く。この眼球運動の違いを距離として認識しているのだというわけです。つまりベースにあるのは自分の眼球が動いている身体感覚である、とバークリーは言います。この感覚によって、この2つは隔たっているね、あるいはこの間に境界線が見えますね、という考えが形成される。言い直しますと、距離の知覚とは眼球運動によって構成されるものであり、眼球の配置を換えることで生起した、筋肉の緊張や弛緩の感覚が第一義的にある。距離の概念はそれが媒介となってできるものだということです。つまり、距離がある、ある物と別の物が離れている、ある物とある物の間に境界線があるということは、経験の結果抽象されてできたものであり、随伴的なものということになります。
さらにその帰結として、当然ながら物と物との識別自体も距離の概念という二次的なものに含まれていますから、物の識別は視覚的にはア・プリオリにはできないということになる。「モリヌー問題」に対するバークリーの答えは、こうして明快なかたちをとります。
「生まれつきの盲人が視覚を与えられても、最初は、視覚による距離の観念を全く持たないであろうということである。太陽や星のような、最も遠く離れた諸対象も、より近い対象と同じく、すべて彼の眼の中、あるいはむしろ彼の心の中にあるように見えるはずなのである。視覚によって導入された諸対象は、彼にとっては(そして真実そうなのだが)、新しい一連の思想あるいは感覚以外の何物でもなく、それらは各々、痛みや快の知覚と同様に彼の近くにあり、あるいは彼の魂のもっとも内奥の情緒であるように思えるであろう。というのは、我々が視覚によって知覚された対象を、何らかの距離に、あるいは心の外側にあると判断するのは、完全に経験の結果であり、この経験の結果を、そうした状況下に置かれた人はまだ獲得しえていないのだから。」 (同、§41)
いままで見えなかった目がばっと開いた瞬間にあふれる光のフローは、じつは痛みと同じレヴェルで身体に根ざしたなにか、分節化できない感覚なのだとバークリーは言っているわけです。ところが、そのあと私たちは、生きていくなかで目を鍛える。遠近法といったものの、目で学んだひとつの成果です。「目は生きている」というディドロの言葉を思い出してもよいでしょう。私たちは区別する、輪郭をつける、遠近法で物を見ることを学んでいく。このようなバークリーの推論は、知覚レヴェルでは極めて正しい。距離すなわち判明さの感覚は、経験的に獲得されたものでしかなく、その意味で痛みや快の感覚とは違う。