■視覚的観念・触覚的観念の結びつきと「生態の倫理」

それではこうして発生する距離の観念を媒介に物を見る、すなわち、距離のある物を見る、とは知覚上どのような意味を持っているのでしょうか? 距離の感覚は発生した段階では、ある種の運動感覚でした。自らが動いているという感覚を基盤に視覚を捉えるこのやり方は、自らが棒の支点となって物を押すように物を見るデカルト的な流儀とは異なっています。ここでデカルトの話が覆されます。デカルトにとっては、距離は触覚の違いであり、大ざっぱに言えば右手と左手の位置のずれだった。ところが、バークリーにとって距離はまったく別様に考えられていて、ある意味ではより簡単です。引いてみましょう。

「自分の見たものが自らの知性に示唆するのは、一定の距離を通過した後には──その距離というのは自分の身体の運動によって計られるものであり、その身体の運動は触覚によって知覚されうるものなのだが──自分は、かくかくの視覚的観念と多くの場合結びついていたところの、かくかくの触覚的観念を知覚するに到るであろうということに過ぎない。」(同、§45)

隔たって見えているということは、そこまで歩いていけば触れるし、触ったときには感覚を得てくるだろうというわけです。眼球の運動によって見ていた物を、自分で歩いていって触ることができる。距離の知覚は、向こうに行って触ったときの感覚を呼び起こす。目を開けているが像がぼやけているというのは、それがうまい具合に呼び起こされていないわけです。ここで、距離の観念を、「その距離分だけ身体を動かせば、視覚像と結びついていた触覚的観念を知覚することができるだろう、という観念」と言い換えることができます。では、これにどういう意味があるのか。次にバークリーが強調している触覚の特長を紹介します。

「我々が自分のまわりにある諸対象を評価するのは、それらが我々の身体に役立ったり有害であったり、そしてそれによって我々の心に快や苦の感覚を生み出すのに、どれだけ適っているかに応じてである。ところで物体が我々の身体器官に作用するのは直接的接触によってであり、またそこから生じる害や益は、どのような対象であれ、完全にその触覚的性質に依存しており、その視覚的性質にはまったく依存していない。このことが、我々においてなぜ触覚的性質が視覚的性質に比べてはるかに重要視されるかの端的な理由である。」(同、§59)

ここでさきほどの舐め回しの話とつながるかもしれません。初めて見た物を触りに行って、それが熱かったとします。次に遠くから見たときには、このあいだの熱いのに似ているから触るのをやめておこう、となる。あるいは、赤い実は数年前に食べたときはうまかったから行って食べよう、というふうに見えてくる。つまり、触覚的な諸対象の評価は「快/苦」「益/害」によって決定されます。「存在することとは知覚することである」と述べたバークリーは、全部の存在を知覚のなかに入れたように見えるのですが、触覚論のほうから考えてみますと、この感覚論の基底には身体の維持や健康と結びついた、いわゆる「生態の倫理」があるのではないかと思えるわけです。この「生態の倫理」とは、ドゥルーズがそのスピノザ解釈で用いた用語です。ドゥルーズが考えるスピノザ的な倫理とは、健康や診断といったものに基づいている。すなわち、なにかを治す、なにか悪いものをよくする、ネガティヴなものをポジティヴなものに転化させることで、より喜びを多く受けるようにする。ドゥルーズが見出したスピノザ論像は、この性格を明確に帯びています。そうして、バークリーの視覚論の根底に、こうした、生きて探索する身体の運動可能性が見出されるのです。この身体の移動可能性という審級において、じつはバークリーの触覚概念はベルクソンによる批判を免れていると言えます(もう一度思い出しておくならば、ベルクソンの批判は、バークリーは観念のなかに全部を入れてしまった、この当時は観念と表象と実在を分けすぎていたのだ、というものでした)。
ここからは補足的に、バークリーの読解をもう少しだけ続けます。バークリーに見出されるもうひとつのファクターとして、視覚による観念には、「心のなか」という考え方がつねに付随するということをここで挙げておきたいと思います。

「視覚的事物はすべて等しく心の中にあり、外的空間には全く関わりを持たないからである。ということはつまり、心の外に存在するいかなる触覚的事物からも等距離にあるからである。」(同、§111)

つまり、バークリーにとって視覚とは、心のなかと外を構成するようななにかです。視覚とは、心のなかになにかを見て入れ込むことです。そうして視覚には、フレーム外のものか、隠れてしまっているものか、この段階ではわかりませんが、明らかに「外部」がある。では触覚はどうか。じつはバークリーは触覚に内外の差を認めていません。少なくとも触覚による観念が心のなかにある可能性自体は述べていない。あなたの心のなかにある暖かさ、といったものはバークリーにとってはその存在を問えない。なぜなら、これは僕の推測ですが、触覚においては内と外という区別が視覚より成立しにくいからではないからではないでしょうか。すなわち、切り傷の痛みはあなたの外にあるのか内にあるのか、なにかを触って熱いと感じることはあなたの外にあるのか内にあるのか。のちのウィトゲンシュタインにも見られるような問題が、ここにも見られるように思います。視覚は心のなかにすべてを囲い込み、パースペクティヴを与えることである。触覚はそうではない。あるひとつの、どこまでも動ける身体といったものを概念として持っていて、そこでタッチしたときの心地よさに基づいて世界を構成するのが触覚である。「視覚/触覚」、そうして「内部外部/全体」というこの2つの二分法からなにが言えるのか。引用をもう少し続けてみましょう。

「すなわち、動物は視覚観念の知覚によって予知が可能であり(視覚観念それ自身は彼らの身体の組織に害を及ぼしたり、ましてや変化させることはできない)、離れた所に存在するあれこれの物体に彼らの身体が触れた場合に生じるであろう害や益を予知するのである(それは、かくかくの視覚観念にどのような触覚観念が結び付けられているかという過去の経験にもとづいてである)。」(§59)

視覚概念とはなにか。先ほども述べた通り、それは触覚の予知です。離れたところにある害や益の先行摘出ということになる。これは言い換えれば、じつは私たちは潜在的にはあらゆるところに触れうる存在である、ということを意味しています。食べることも触れることだと考え、嗅ぐことも触れることだと考えると、実際、あらゆるところに触れうる存在である。これを発展させると、視覚は「触覚的なレヴェルにおいて無限の可能性が広がっている世界の折り畳まれTexture」を、あるパースペクティヴ、あるいはあるフレームを持って切り出してくるということです。ただし、いま私たちが見えている視野に、フレームやパースペクティヴがあるのかと訊かれると、現時点では僕はそこには答えられない。自分にとってものが「実際」どう見えているのか、視界という領域ともつかぬ領域がどのように現われているのか、という点に関しては、その記述さえもひどく困難に思えます。ただ、ある仕方で視覚できた人工物や加工物が、フレームやパースペクティヴなしにやってくることはあまりないのではないか、とも思っています。
これは余談になりますが、今日、多くの先端的な開発組織において、触覚ディスプレイというものが制作されています。ある電極を身体につけると、鉄の板でもゴムのような感触がする、そういったものです。こうした触覚をディスプレイする試みが、ヴァーチュアルなものを構成するひとつの挑戦として進行している。ところで、今まで僕が話してきたことと対照させると、これはすでに概念の時点で気持ち悪いですよね。触覚をディスプレイするといっても、バークリー的にはディスプレイできないものが触覚なわけですから。このことと、先ほどの柳澤さんの話でも問題となったような、映像から可能な触覚世界を汲み尽くそうとする、映像に対するリアリティ探求の試みといったものが、じつは対の関係にあることが現代の徴候的な現象として、ある意味面白いのではないでしょうか。
先ほど、バークリーの発展形として僕が圧縮して提示した概念についてですが、ギブソンの理論はそこを読んで取り入れた形跡がないように思えます。解説にある下條さんの考えをお借りするならば、ギブソンは再び、近代初期とは別の仕方で触覚的世界を視覚化したのではないか、というふうにも考えることができます。こうした探求は、具体的な制作物の検討や自らの経験についての反省、あるいは理論的な検討など、複数の相から同時に考える必要があるかと思います。とはいえ、限られた時間でのお話ですから、今回は「自分が見ている物」と「自分がタッチできること」とに関わるひとつの補助線を引いてみようという試みとして、こういう話をさせていただきました次第です。 遠く離れてしまったもの、媒介を重ねられたあげく適切な解像度を失いつつあるものに対して、今一度リアリティをもって考えるために、いかなる回復の手続きが考えられるのでしょうか。グローバリゼーションの名の下で、世界は均等に狭まりつつ遠ざかっていくような気がしているのです。思考や芸術の実践とは、既定の距離を攪乱させ、リアリティを新たにつかむためのひとつの試みではないでしょうか。どうもありがとうございました。

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