平倉
よろしくお願いします。タイトルは「蜘蛛のスクリーン」です。前回、柳澤さんと大橋さんから「視覚の触覚性」という問題が提起されました。それを受けて前回私は、映像とは、プラトンの洞窟の比喩に示されるような、「私が見ているものが私が見ているものだ」という知覚のトートロジカルな閉鎖性のことではないか、という問題を提起してみました。今回の私の発表はこの問題を、蜘蛛の知覚を通して考えてみたいと思います。周知の通り、蜘蛛は振動によって、つまり触覚的に知覚を行なうからです。まず、蜘蛛の触覚に入る前に、蜘蛛の網の視覚的な現われから始めましょう。
最近ハリウッドの「立体映画」が注目を集めていますが、セルゲイ・M・エイゼンシュテインは、1947年に「立体映画について」というテクストを執筆しています。その冒頭近くで、2種類の動物が、立体映画の効果を説明するために登場します。引用します。
「スクリーンと観客のあいだのどこかに、巨大な蜘蛛とともに蜘蛛の巣がかかっている……鳥たちがスクリーンの奥を目ざして、客席から飛び出したり、観客の頭上の電線にとまる。」(セルゲイ・M・エイゼンシュテイン「立体映画について」[『エイゼンシュテイン全集 第2部 映画——芸術と科学 第6巻 星のかなたに』、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、キネマ旬報社、1980、240頁])
スクリーンと観客席を行き来する「鳥」はわかりやすい例です。しかしなぜ、最初に「蜘蛛」なのでしょうか。
毎年9月末から10月、11月にかけて、都市近郊部でもジョロウグモの大きな網をよく見かけます。網に向かって枯葉を投げてみると、中空にひとつのスクリーンが立ち上がる[fig.6]。
網にかかった枯葉が奥へと広がる風景のなかで、宙吊りにされたひとつの多孔的レイヤーを作り出すように見えます。エイゼンシュテインが立体映画に求めていたのはこのことです。すなわち、手前にあることと、奥に開かれていることが同時にあること。それをエイゼンシュテインは、観客をスクリーンの内部に「引き込む」ことと、スクリーンの出来事を、スクリーンの外部の客席に「持ち込む」ことの同時性として考えています。
エイゼンシュテインは、「立体映画」の前史をさまざまな文化的領野のなかに渉猟しています。例えば歌舞伎の「花道」が立体映画の前史として取り上げられる。つまり立体映画は花道のように、客席と舞台、すなわちスクリーンの外部と内部とを一体化するというわけです。その一体化はしかし、たんに映画の美的効果を最大化するためだけにとられる方法ではありません。
エイゼンシュテインの映画《戦艦ポチョムキン》(1925)のラストショットは、ポチョムキンが、まるでスクリーンを中央から「切り裂く」ようにこちら側に突進してくるところで終わります。見てみましょう[fig.7]。
この「切り裂き」は比喩ではありません。エイゼンシュテインはあるテクストで、ポチョムキンがスクリーンに突進してくるのに合わせて実際にスクリーンが「切り裂かれ」、なかから水兵たちが飛び出してくる、というアイディアを語っています。スクリーンから水兵たちが、いわば「出産」される。出産された水兵たちは、いまや映画の観客と文字通り一体になって、「われわれ」というひとつの「歴史的主体」として立ち上がる。エイゼンシュテインの立体映画のヴィジョンにはそのような、映画による政治的主体の「出産」可能性が込められています。
しかし、蜘蛛の網が2つの異なる世界を一体化するのは、単に視覚的な仕方だけではありません。実際の蜘蛛の網は、より繊細で、より網の本質に即した仕方で、外部と内部の一体化を行なっている。網の振動です。
さきほど、蜘蛛の網に枯葉を投げた写真をお見せしました。しかしどんなに風の強い日でも、こんなふうに、蜘蛛の網一面に枯葉がかかっているような光景は見かけません。なぜなら葉がたくさんかかった網は一種の「帆」となって、すぐに風で飛ばされてしまうからです[fig.8]。
そのようなことが起きないよう、ジョロウグモは毎日半分ずつ、膨大なエネルギーを使って網を張り替えます。それだけではありません。網にかかってしまった葉を、顎で網ごと器用に切り抜いて補修するということも行なっています[fig.9]。
葉をかけると、元気なジョロウグモであれば振動を感知してさっと葉に近寄り、切抜きをはじめます。振動を感知しうるのは、網が、そこにぶら下がるジョロウグモにとって、拡張された身体の一部をなしているからです。網は、ジョロウグモの身体の内部と外部を結合しています。3層からなる複雑な建築的構造によってぴんと張られた大きな網は、いわばジョロウグモの外在化された「神経組織」なのだと比喩的に言うこともできるでしょう。これを比喩としてではなく考えたひとりの哲学者がいます。ドゥニ・ディドロです。
ディドロは大橋さんのご専門で、「蜘蛛のことを考えるならディドロの『ダランベールの夢』を読むといい」と教えてくださったのも大橋さんです。まずそのことに感謝を表わしておきたいと思います。『ダランベールの夢』のなかでディドロは、レスピナッスという女性に次のようなヴィジョンを語らせています。ボルドゥーという医者との対話を引いてみます。
「レスピナッス嬢──先生、もっと近くへお寄り下さいまし。巣のまんなかに一匹の蜘蛛を想像してごらんなさい。その糸を一本ゆり動かしてごらんになれば、そのすばしっこい動物が駆けつけてくるのが見えるでしょう。さてそこで、その昆虫が、好きなときに腸から引っ張り出したり、たぐりいれたりする糸が、その虫の感性ある一部分をなしているとしたら?……」
(ディドロ「ダランベールの夢」[『ダランベールの夢』、新村猛訳、岩波文庫、1958、54-55頁])
レスピナッスとボルドゥーは、このアイディアを人間身体に拡張します。
「ボルドゥー──糸はいたるところにありますよ。あなたの身体の表面で、糸がゆきつかない点は一つもありません。そして蜘蛛は、さっき名づけた一部分、つまり脳膜に陣取っているのです。この部分に触れれば、体という機能全体を麻痺させずにはまずすみません。
レスピナッス嬢──でも、もし一つの原子が蜘蛛の巣の一本の糸を振動させたとすれば、そのとき蜘蛛は警戒体制をとり、心配し、逃げるか馳け寄るかします。まんなかにいて、蜘蛛は自分が網を張りめぐらした広大な部屋のどこで起ることでもすべて承知しているのです。わたくしは感性ある多くの点の球であり、一切のものがわたくしに圧しつけ、わたくしも一切のものに圧力を加えているのに、なぜわたくしは自分の部屋あるいは世界のなかで起ることが分らないのでしょうか?」(同、55-56頁。)
人間の身体は、感性をもつ無数の蜘蛛の糸の束でできているというわけです。それだけでなく、その糸は、文字通りの身体の境域を越えて、身体が接触する部屋の全体に、さらには世界の全体に広がっている。にもかかわらず、部屋あるいは世界のなかで起こることがわからないのは、つづくボルドゥーの台詞によれば、「印象というものは発するところの距離に比例して弱くなるから」です 。私の身体は世界へと網状に広がり、世界の振動を潜在的に受け取り続けている。魅力的なアイディアです。
しかし実際の蜘蛛の網は、たんに世界の振動を受け取る、刺激の「伝達」経路として広がっているだけではありません。それは動的に動かすことのできる「探索」的な身体そのものでもあるからです。
ジョロウグモは、その大きな体からは意外なことですが、小さな蠅のような虫を主食にしています。この秋に私はジョロウグモの観察をしばらく続けていたのですが(笑)、よく見ていると、ジョロウグモが小蠅をつかまえるときの奇妙なしぐさに気がつきます[fig.10]。
もう一度見てみましょう。ジョロウグモが、蠅のほうに近づく前に、前の4本の脚をそろえて、繰り返し網をはじいているのがわかるでしょうか。「ジャーキング」と呼ばれるこのしぐさは、網にかかった小さな昆虫がどこにいるかを知るために、網を自分で揺らし、返ってくる振動によって、蠅のかかっている正確な方角と距離を知るという行動です。
この行動は、私の認識論的関心を強く刺激します。いかなる動物も、みずからの知覚のなかに閉じられている。認識論的閉鎖性を乗り越えうるようないかなる動物も存在しない。しかし動物の知覚システムは、同時に具体的な物質性をもった身体であり、その身体は、蜘蛛の網のように、文字通りの身体の外部にまで広がっている。だがその網は、拡張された身体の一部であるだけでなく、蜘蛛にとっての「大地(支持体)」でもある。その「大地」はしかし、網にかかった蠅の身体にとっても「大地」を構成している。それゆえ網を揺らすジョロウグモは、自己の身体を揺らすことで、同時に蠅が接触する「大地」を揺らしていることになる。
蠅にとってもまた、その「大地」が、蠅の拡張された身体の一部を構成していると考えるなら、ジョロウグモは、自らの身体を揺らすことで、同時に蠅の身体そのものを揺らしているということもできるでしょう。そのとき、蜘蛛の身体と蠅の身体の境界は緩やかに浸透している。蜘蛛と蠅は、ばらばらな身体であると同時に、網状の「大地」を通して同じ振動を共有する、「ひとつの」身体を構成している。まるで例えば、馬と馬に乗る人が、振動の同期を通して、ひとつの「人馬」という個体性へと生成するように。
もちろん、ジョロウグモと蠅との振動的・接触的関係は捕食的なものであり、蠅はジョロウグモにすぐさま食われてしまいます。しかし可能的には、ここには、蜘蛛と蠅が、触覚的な交渉を通して、それぞれの認識論的閉鎖性を超えて、ばらばらでありながら「ひとつ」になる場が示されているということもできるでしょう。
しかしここで問題が立ち上がります。蠅とジョロウグモが「ひとつの」身体を構成するとは、いったい誰によって認識された認識なのでしょうか。──言うまでもなく、観察者です。そしてこの観察者の問題は、ディドロのテクストに現われるもうひとつの虫のほうに私を導きます。