■質疑応答 4

榑沼
それではフリーセッションに入る前に確認的な質問があればよろしくお願いします。

大橋
ディドロをこのようなかたちで適用してもらえると、本人も喜ぶだろうと思いながらうかがっていました(笑)。また、平倉さんの論の展開とは少し異なりますが、ディドロとエイゼンシュテインのあいだにはひとつの密接なつながりが存在しています。エイゼンシュテインは1943年にロシア語で「ディドロは映画について語っていた」という短い論考を書いています。これは1984年にフランス語に訳されたので、さらに多くの人が読めるものになっていると思いますが、そのなかでエイゼンシュタインは、ディドロの舞台演出の技法が映画におけるモンタージュの技法と酷似していることを指摘し、ディドロにとっての理想的な演劇が完成するには映画の出現を待たねばならなかったのだと述べています。もう少し具体的に言うならば、エイゼンシュテインは、舞台におけるフレーミングの効果が舞台の実際のサイズに制約されてしまいフレームやアングルを変化させることができないというディドロの批判を取り上げます。また同時に、これに伴い、舞台上の筋書き──例えば遠方での出来事と登場人物たちの舞台上での行動との関連が──同時的かつ複層的に進行することができずにいることについてのディドロの嘆きも取り上げ、ディドロの演出概念のなかにモンタージュの理論を見出します。最後に付け足すならば、平倉さんの今回のご発表はこれをさらに唯物論的に展開させたものに思えます。例えば「群れ/個体」、あるいは「生成/出産」といった2つ組は、類似した物質的秩序のなかにありながら、ただその観察における焦点距離だけが異なっているものではないのか、さらに言えば、映像を見ること、見ることにおいて解像度を変えることとは、この変容可能性を自在に行き来するような体験を与えるものではないのか、そうおっしゃっているような気がします。
さて、質問したいのはサント・ヴィクトワール山の部分です。山の変容について平倉さんは、「反時代的な、来るべき身体へと生成するべく誘われている」とおっしゃっていました。ここでセザンヌの言及を思い出すならば、彼は同時に山とはスーヴニール・ド・ソレイユ souvenir du soleil、つまり太陽の記憶であると言っていた。太陽の記憶というとどうしてもプラトン的なところも思い出されます。こうして、ある種の記憶という要素が見えてくると、榑沼さんのアウラの話とも近づいてくると思うのですが、時間の倒錯といった考えが頭に浮かびました。この変容への誘惑は、同時に過去のものではないだろうか? だとすればそれは、どのような「過去=未来」なのだろうか? そうなりますと、平倉さんは過去に関して、ベタな意味でも深い意味でもいいのですが、どのように思われていたのか、と聞いてみたい。平倉さんはあえてプラトン的な「イデアの想起」という考えを少し弱めたうえで、それを別の方向に開いたように思われます。けれどもまさに引用された当の箇所でセザンヌが過去のことを話しているという事実をどのように受け止めるべきなのでしょうか。

平倉
サント・ヴィクトワールは山ですから、山自体の地質学的な隆起と浸食というレヴェルで、何らかの過去が実際に現われているし、それを何らかのかたちで受け取ることができると言うことはできると思います。一方で、映画の問題として考えると、《セザンヌ》のスクリーン上にそのような過去が見えるのかどうか。サント・ヴィクトワール山の地質学的な過去がフィルムに映っているかと問われると、少なくとも私自身はためらってしまう。過去は見えない、ととりあえず言ってしまうことが、自分にとって何が見えて何が見えないのかを知るうえで必要な一歩なのだと思います。

大橋
それにつなげて言うと、何か知らないけれども懐かしいという思いが喚起されることもありますよね。例えば森山大道がスランプ時代に発表した『遠野物語』(朝日ソノラマ、1976)という写真集は、行ったこともない遠野にふるさとがある気がしてその地を撮りまくり、それによって彼が何だかほっとしたという話とともに語られる作品です。これはある意味で、懐かしさや故郷に関するモダニズムに特有のナラティヴともとれますし、逆にある種の「居心地悪さ not-at-homeness」がもっている普遍的な構造を指しているとも考えられます。生成変化の内在的な記述可能性というのはそういう話と関係あるのでしょうか、それともないのでしょうか。生成変化の内在的な記述とは、自分が所持していないことがらについての思い出のような、いわく言いがたい妙なものとして解釈できるかなとも思いました。そうして、その場所が果たして「どこ」なのかという問題を考えると、楽しくもあり悩ましくもあるような。

平倉
私はいわゆるデジャ=ヴュ的な体験をしたことがないので、実感として語れないところがあります。ですが、今回の話に繋げてしまうと、デジャ=ヴュ体験は、経験していないような過去を現在の自己記述の内部に含めることで自己を作り変えてしまうことだと思います。それ自体奇妙な自己の変容ですが、私自身は、デジャ=ヴュよりはジャメ=ヴュ、つまり見たことがない、見たということが思い出せない、という経験がどのように起きるのか、ということのほうに関心があります。

柳澤
とても面白く聞かせていただきました。生態学的なアプローチに関心を持っていることもあって、私も生き物の生態を捉えた映像がやたら好きなのですが、お話を聞いていると、平倉さん自身にとっては、前回のディスカッションで「本気になる」と表現されていたような態度、要するにクリエーション=創造行為において倫理的態度を成り立たせるためには生物としての「生き死に」が関わってくることが重要な思考条件となっているような気がしました。言うまでもなく映像一般ということで言っても、前回のホラー映画問題しかり、今回のゲーム映像しかり「生き死に」はある種過剰なほど一貫して重要なテーマであり続けている。今回取り上げられたエイゼンシュタインもほとんどそういった種類の「生き死に」に関わる暴力を撮っていた人だと思います。何を言いたいのかというと、昨今、情報理論などでも生き物の生態を比喩として、あるいはモデルとして用いる議論は多いわけですが、やはり「生き死に」が関わっているかどうかが、単なる比喩なのか真に生き物の生態なのかを分ける分水嶺になりうるのではないか、ということです。そして、「本気になる」倫理的態度というのはそのような生き物としての「生き死に」が問われる場でのみ成り立つことなのかどうか。
例えば平倉さんのお話で、超個体に生成変化する例として、競技場でウェーブが起きるという現象が挙げられていました。先に挙がったアトリエ・ワン『空間の響き/響きの空間』のなかにも、そういう現象についての分析がありました。2002年の日韓ワールドカップのときに、六本木の交差点で自然発生的に大勢の人々によるハイファイヴが起きたそうです。このアトリエ・ワンのテクストでも生物の超個体的な動きが念頭に置かれていました。私は基本的にそういう話が好きなのですが、同時に生き物が超個体性において実現していることはもっともっと過酷な事態なのではないかという気もする。例えば私が非常に衝撃を受けた映像で、BBCが配信していたものですが、軍隊蟻が洪水に襲われたときに、お互いで組み合って船のように浮かんで移動するというものがあります。[fig.16]


[fig.16]軍隊蟻の生態(YouTubeより)

それだけでもなかなかに壮観なのですが、最も衝撃を受けたのは、彼らが自分たちの子どもである幼虫を船の周りにきれいに並べて浮き輪のようにしていたことです。そういうものを見ていると、私も生態学だとかエコロジーだとか言う以上、こういう蟻たちのような生き方をどこかで引き受けなければならないのではないか(笑)、そんな気になってしまう。生物の超個体的な現象をリアルに考える場合、前回スピノザについて言及した際にも問題になったような、非常に過酷なものが入り込んでくる。これはなかなかきつい話です。平倉さんが挙げられる例には非常に共感するのですが、ウィトゲンシュタインの大砲もジョロウグモもしかり、やはり生きるか死ぬかが問われる事態にしか突破口のようなものはない、そのように聞こえました。あとのフリーセッションでぜひ榑沼さんにもお聞きしたいのですが、要するにみんなでピンクレディーを踊ることと、生き物としての超個体への生成変化が違うのかどうかということもあります。私は、両者に連続性はあるとは思うけれど、先にも言ったように、やはり安易に同一視はできないのではないかとも考えます。ぜひ超個体性の条件というものをお聞きしたいと思います。

平倉
あまり意識していなかったのですが、確かに「生き死に」に関わる話が多いですね(笑)。なぜでしょう。 今回考えたかったことのひとつは、どうすれば変化していることだけを幻想抜きに取り出すことができるのか、ということです。私はたまに山に登るのですが、山に登っていると日はだんだん傾いてくるし、その間に自分の体力も落ちてくる。そのときすごく具体的に、あと何時間で日が落ちて、自分の体力が今こうだから、残念だけど引き返そう、あるいはこのペースで歩いていこう、ということを考える。それはとても具体的なことであって、過酷というよりもシンプルなものです。幻想が介在しない。そういうシンプルさのなかで、変化という問題を考えようとするときに、「生き死に」という切り口が出てくるのかもしれません。
机の前で考えているとき、死と生の問題は私にとってある種の極限として現われます。ところが山に登っているとそれは極限ではなく、不意に乗り越えられてしまうかもしれないひとつの地点でしかない。都会で生活しているときは、100という限界状況から101、102、103、と少しずつ無理をかけていくことで自己を組み替えようとすることがあるのですが、山ではそういうことにはならなくて、100の次には1000が現われる。勇み足するとたんに死んでしまう。だから、はじめから100なんて目指さないで、70くらいでやらなければならない。自己と世界に対する欺瞞的な幻想を、最初に排除しておかなければならないわけです。直接的なお答えになりませんが、そういう感覚を自分の考えている問題のなかにも持ち込みたいと思っています。

ドミニク
サイバネティックスだと、超個体の生成変化は生物の自己組織化や創発みたいなものとして説明されますよね。先ほど柳澤さんから説明があったように、実際にピンクレディーをみんなで踊りまくる現象を創発と呼んでいいのか。また今の話だと、生き死にの境界設定が、蟻や蜂と人間とは共有できないという問題があるとは思います。僕もどこかで繋がらないのかなと考えている。蜘蛛の巣ではないほうのウェブ(インターネット)で、そのような実験をずっと行なっているアーティストがいます。オーストリアのステラークというアーティストですが、彼は第3の耳を自分の顔や左腕に移植したりする。先ほどの生成変化の話で、おそらく身体的な境界は、思念や思弁だけでは絶対に乗り越えられないものだと僕は思っているのですが、平倉さんは、それが見えない蜘蛛の巣だとおっしゃっていた。逆に言えば、まさにアーキテクチャ的な境界があるのであれば、アーキテクチャそのものを改変していけばどうにかなるのではないか。あるいはどうにかなってしまうのではないかとも思える。ネットゲームの構造が自分の身体をオーヴァーライドして、現実のセンター街を3D化して見てしまうということは、それだけ人間の身体や心の理論といった基盤システムが可塑的だということです。
僕は本業のほうでサーバーの監視もしているのですが、それを「死活監視」と呼びます。例えば今30台ほどサーバーを動かしていたりすると、すべてにピング(Ping)を打っていきます。ピングとは各サーバーにメッセージを投げかけて、それが返ってくるまでの応答速度などを検診することです。つねにピングを打ち続けて、返信がないと何らかの問題が起きていることになる。そこでアラートが発生して僕にメールが飛んでくる。まさにジョロウグモのジャーキングと同じです。僕たちのシステムにとっての獲物、つまりたくさんのアクセスがくることは、うれしいことでもあると同時に危機でもある。例えば平倉さんが、蜘蛛の巣に枯れ葉を投げつけるような行為とは、うちでいうとアクセスが多すぎてさばけないことを意味します。そういう意味で眠れない夜を過ごしていて、ネットワーク上のジャーキングが非常にリアルに感じられる今日この頃です(笑)。あとで僕の話にもかぶってくると思いますが、SFでは超個体の想像力や表現はいろいろ考えられていて、『攻殻機動隊』のアニメ版に出てくる「電脳ハブ」なんかがわかりやすい例かと思います。これはまさに、人間の電脳そのものにブレイン・コンピューター・インターフェイスで接続できる。歩くニコニコ動画のようなもので、例えば平倉さんの視覚体験を1万人が中継して見ているようなことが起こる。そうした集団の発生の仕方が理論的にも可能なくらい、それくらい人間存在は可塑的なのだと思っています。非常に非人道的ではありますが、飛行機人間のような、飛行機と一体化してしまった人間のようなものも、それこそ米軍などが作れてしまいますよね。

大橋
機関車トーマスも怖いですね。

柳澤
あれは人間と機関車が一体化しているわけではないでしょう(笑)。

平倉
おっしゃることはよくわかります。今回の発表が扱ったのは、自己記述の解除による自己の変容という問題でした。しかし、ただ自己記述を解除するだけでは届きえないような膨大な領域が身体にはある。私の外側から、私とはまったく違う解像度で観察しうる人が、私のシステムを物理的に組み替えるということは当然あると思います。そのとき問題になるのは、身体がその変容を生き延びることができるか、ということでしょう。

榑沼
柳澤さんからの質問に対して忘れないうちに。ピンクレディーは結構好きなんですよ、特に47歳、ファイナルコンサートのDVD。しかし、曲ごとの振りの大筋は決まっていますし、ステージ上の2人が中心であることも変化しませんから、予期しない「超個体」への生成とはやはり異質なんでしょうね。ただ、「超個体化」に価値を見出すかどうか、それともそれに抵抗するかどうか、どういう種類の「超個体化」を追求してしまうかどうか、それは個別的・具体的な場にわれわれが直面した状態でないと何も言えないです。それから、平倉さんが撮影した蜘蛛と蠅にとっての揺れる「大地(支持体)」を観ながら思い出していたのは、都市のことです。とくに、福岡伸一さんも『生物と無生物のあいだ』(講談社、2007)のなかで書いていた音響・振動の場としてのマンハッタン。摩天楼から岩盤に深く打ちこまれた鋼鉄が、巨大な音叉の群れになって耳鳴りのような振動場を形成し、それがあの街を往来する異質な人々の通奏底音になっているというのですね。また、ニューヨークのような街では、ウォールストリートにしてもハーレムにしても、死活問題になるような環境の変化率が激しくて、ほかの街よりも「山」に近いのではないでしょうか。藤本壮介さんが「山」のような建築というイメージに魅かれているのも、関連して気になるところです。

では引き続き、ドミニクさんにお願いしたいと思います。

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