榑沼
ありがとうございました。それではドミニクさんのプレゼンテーションに応じてご意見をお願いします。
平倉
最後の半自動的なアプリが非常に面白くて、それが「胡蝶の夢」の意識接続という話を可能なモデルとして示しているように思いました。ドミニクさんの論文を読んでいて思ったのは、このシステムには「ハウリング」が起きるのだろうか、ということです。例えば、ひとりの人がちょっと怖いことを考える。するとそれが別の人の意識に直に伝わり、どんどん増幅される。そしてシステムに接続したすべての人の心がすみやかに壊れてしまう。おそらくそのような情動的なハウリングが起こらなかったらあまり面白くないし、違法化されたとしても必ず行なわれるように思います。
私が連想したのは、大学院生だったときに、自分の論文をゼミで「裁判」にかけられたときのことです。自分が教室の真ん中にいて、両側に「弁護士」と「検事」がいる。自分の論文に対して検事がいろいろと追及してくる。私はずっと黙っている。弁護士は私の代わりに、この論文はその問題を乗り越えていると弁護してくれる。ところがそれは自分でも考えていないようなことなのです。これがすごい快感だった(笑)。自分より優秀な人が両隣にいて、本当は自分でやらなければいけない批判検討の作業を、ものすごい高速でやってくれている。自分の思考に2台の強力なブースターが接続されたような感じです。そういうわけで、被告席に座ることは相当な知的快感をともなう経験なのではないかと考えるようになりました(笑)。これは自然言語による思考接続の例ですが、言語以前のレヴェルでそれを行なえば、加速感はもっと強力なものになるでしょう。そもそも作品経験というものは、別の思考システムと接続を果たそうとするものだと思いますが、思考システムの直接的接続がもし本当に可能なら、作品という概念は決定的に変容するほかはないと思います。接続対象は生きている人間でなくてもいい。非常に特異な考え方をする人の、ある日の1時間分の思考システムがネットワーク上に保存されていて、そこにちょっと接続しにいくと思考の爆発的加速を経験できる、というようなことも夢想しました。
ドミニク
裁判モデルはやってみたいですね。おそらく平倉さんの弁護人が解釈を生んだ瞬間に、その論文は継承されたことになると思うのです。Type Traceでいうと、鑑賞者には書き手の同一性をテクスト越しに感じさせるという効果を持つことがわかりました。そこで書き手自身にどういったフィードバックがあるのかを確かめるために、自分でも実験してみました。2008年に森美術館で行なわれた、サスキア・オルドウォーバースというオランダの映像作家の個展のための評を依頼されたときに、原稿をType Traceで書いてみたのです。そのときは1時間で8,000字の原稿が書けました。実験はこの1度しかしていないのですが、どういうことが起きたかというと、まず1行を書くとします。人にもよると思いますが、僕は通常まず文のかたまりを書いて、それを読み返すことをしています。ですが、Type Traceでは、1行書いてはType Traceで再生するのを見直して、それを見ながら書くということをやっていました。「サスキアは○○○○の作家だ」という冒頭のフレーズを書いて、それを保存して、再生して、再生されているところで書き続ける。そうすると、自分の文体でないテクストが出てくる。直前の流れに乗っかって、サーフィンをするように書いていくと、やたらと文章に自己否定が入ってきた。結果として、皮肉にも自分の文章としては緊張感のあるという評価をもらえる文章が書けました(笑)。それはType Traceというひとつのアプリケーションから発生した時間フレームに起因していることは間違いないのですが、Type Traceのみが可能たらしめているわけではなく、それは実はつねに起こっていることですね。こうやって話しているときの時間フレームもあれば、ものを考えているときの時間フレームもある。そのうえで自己フィードバック、つまり自分が行為しながら観察することの不可能性みたいなことになると思いますから、生成変化中に私が何に変化しているのかを認識するということは矛盾である、ということには同意できます。ただ、それをうまく解析してあげて外部化して、スポーツジムなどで「あなたの1カ月はこうでした」と示されるように、思考のレコーディング・ダイエットのように自分自身を抽出したデータとの向き合いあり方も出てきたのかなと思います。
榑沼
ドミニクさんのお話を聞きながら考えていたのは、次の第3回目のラウンドテーブルにどのように繋いでいくかという点です。そのときに再び司会役をしていただく柳澤さんのお気持ちも、バシバシと表情から伝わってきました。ひとつの鍵となるのは、おそらく「生態学的批評性」ということではないでしょうか。アトリエ・ワンの『響きの空間/空間の響き』の書評のなかで、柳澤さんが記されていた言葉です。また、平倉さんが展開されていることは、批評行為と制作行為が等しくなることであり、ドミニクさんも方向は異なりながらも、自然言語による解釈を仲介させずに、あるいは意味の解釈ではない自然言語を用いて、「Seeing is Making」を考えていらっしゃる。われわれは「生態学的批評性」と同時に、「生態学的制作性」というものを考えうるのではないか。「生態学的批評性」とは正確には何なのか、「生態学的制作性」とは正確には何に向けられるのか、それを僕たちはこれからもっと詰めていかなければいけません。
ひとつには「生態」をどう捉えるかによって、違う立場がありうると思います。例えば、ドミニクさんの使う「可塑性」という言葉が、僕にはどうも魔法の言葉のように聞こえる。つまり、「可塑性」と言ったときに、全部が変容可能なものとしてイメージされてしまうのではないか。何がどこまで可塑的なのか。それから、人工物であれ自然物であれ、システムには不自由さがあるはずです。すべてが変容可能ではないはずでしょう。「可塑性」という概念も混合物であり、この概念の「解像度」も上げる必要があると僕は感じています。
もうひとつ、これは挑発的になってしまうかもしれませんが、ドミニクさんのような構想を動かしている欲望は何なのでしょう。例えば、時間経過に抗うと言うことは、あまりに人間的な欲望のような気がします。自然史に対するルサンチマンがどこかにあるのではないか。つまり、生命や時間をその不可逆性を含めて全肯定する倫理ではなく、否定しようとする人間的な、あまりに人間的な欲望ではないのか。自分もそうした技術に対する関心が実は高いので、自分自身の欲望も含めて問いたいと思った次第です。
はたして、ドミニクさんはギブソニアンなのでしょうか。むしろサイバネティクスの人なのではないか。こう言うのは、どちらが正しいかをここで問題にしたいからではありません。ギブソンとサイバネティクスの違いが、「生態学的批評性」や「生態学的創造性」の理解に深く関係してくるような予感があるからです。僕のプレゼンテーションでも使った「誘発性」という用語は、ドミニクさんも指摘したように、クルト・レヴィンの概念です。ギブソンはこの概念から離脱することによって「アフォーダンス」の概念を作ったという経緯があります。前回のラウンドテーブルで柳澤さんが名前を挙げていたロジャー・バーカーという生態心理学者がいますが、バーカーの先生がレヴィンです。レヴィンやバーカーとギブソンとの違いは、「誘発性」と「アフォーダンス」の違いから考えられると僕は思っています。「アフォーダンス」は行為を可能にするけれども、誘発はしませんからね。
また、フィードバックという言葉といかにギブソンが理論的に闘ったのかは、ギブソンの直接知覚を理解するうえでの鍵だと思うのです。ギブソンの理論において直接知覚は、フィードバック回路のリアルタイムを意味しないでしょう。身体の移動や環境の変化によってはじめて、知覚情報は「不変項」として知覚されるのですから。『知覚システムとしての感官』のなかでギブソンは、「情報への共鳴、すなわち環境とのコンタクトは現在とは何ら関係がない」と表現しています。ドミニクさんはギブソニアンではなくサイバネティクスの人ではないかと言うのは、そこです。ギブソンが「知覚システム」と名づけたものをどう考えるかがポイントではないでしょうか。
ギブソンは脳のことをあまり知らなかったから、脳神経の感覚回路による処理を軽視しているという批判を耳にすることがあります。確かにそういう部分はあったかもしれない。しかしギブソンは、「シナプス」の命名者チャールズ・シェリントン、それからカール・ラシュレイやドナルド・ヘッブといった脳神経学者の議論を批判的に検討したうえで、『知覚システムとしての感官』や『生態学的視覚論』(1979)を書いています。ヘッブは、『わたしたちの脳をどうするか──ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(春秋社、2005)のカトリーヌ・マラブーが可塑性の概念を唱えるときに参照している脳神経学者です。ここでベルクソンのことを考えることもできるでしょう。ベルクソンもギブソンも無脳論を唱えているわけではない。脳が知覚を再構成するという広く流布している教義を、2人は見直しました。ベルクソンの言葉で言えば、脳はイマージュ総体の部分、集合の一部であって全体ではない。脳という部分がイマージュの総体を作り出すと考えるのは誤っている、と。
そこでドミニクさんがお話されていた「生態映像」ですが、ベルクソンやギブソンも批判したように、脳だけで生態的知覚の「映像」がどの程度作れるのでしょうか。脳のなかに映像があると仮定し、それが可視化できるとしても、本当にわれわれの知覚と一対一で対応しているのでしょうか。何かしら対応しているものが仮にあったとしても、どの程度、対応しているのでしょうか。幾何学的図形ではなく、われわれが生きる環境をいろいろと探索して知覚する場面でも、同じように対応しているのでしょうか。
ドミニク
まず時間に抗うことについてですが、僕はそれを肯定したいわけではないので、その点では誤解があると思いました。旧来の創造性の捉え方が依拠していた部分が、榑沼さんがルサンチマン的とおっしゃった部分に依拠していたのではないかという指摘をしていたわけです。逆に一過性のものや消失してしまうものを、もっと前面に押し出す評価体系を考えられるのではないか。それが生態学的批評や生態学的創造性のなかでできるのではないかという問題提起をしたかった。
似非ギブソニアン疑惑については、聞いているうちにその通りだと思いました(笑)。もしくは、僕はSF作家のほうのギブソニアンなのかも(笑)。いつの間にかヴァレラ主義者に転向していて、いわゆる作動的閉鎖系の枠組みのなかで考えているようで、この枠組みと生態心理学の知見を乱暴に接続しているのではないかというお叱りは甘んじて受けたいと思います。ただ、アフォーダンスと誘発特性の相違についてはもっと議論を深めたいですね。
榑沼
こちらもギブソン原理主義者みたいになっていますが(笑)。
ドミニク
そこはもう少し丁寧に接続していく必要があるとは思いました。最初にギブソンから始めて、ベイトソンを通って、ヴァレラに至るという変な時間軸が僕にはあるのですが、そのなかで重要だと思っているのが、計算機と人間との繋がりの考え方という部分です。おそらく僕が生態学的と言っていることの意味は、必ず情報機器との関係を前提にしています。そこで話の前提との齟齬が生じていて、最近怒られることが多いです。君はネットワークのなかに生きているだろうと(笑)。
ヴァレラが注目した、フォン・ノイマンとノーバート・ウィーナーのコンピューター観の違いがあるのですが、つまり今の計算機のリアリティが、僕はヴァレラ主義者(笑)として非常にリアルでないと感じている。人間の自然から遠いものを僕たちは強引に使っていて、むりやり自分たちの生活に合わせようとしている。そこの乖離が非常に大きい。そのひとつに、例えばコンピューターは無限に複製し続けていて、不変のままにデータを永続化させることが得意なのですが、そのこと自体が人間の摂理というか、身体的なアーキテクチャに縛られる部分でのリアリティと非常に大きな齟齬がある。例えば、今のいろいろな社会問題や、法律的な部分でも齟齬をきたしている。もっと原理的に、計算機と人間との関係を考え直すことができる、と考えているのがサイバネティシャンです。ご指摘のように僕もそういう立場を取っている。
最後に、生態知覚をどれだけ神経接続的に他者と共有できるかですが、それは技術的に可能なのかどうかという話になるので僕のほうからは明確にお答えできずに心苦しいのですが、この論文で考えたかったのは、複雑なものを複雑なままに受け取ること、多様なものをどうやって多様性を保ちつつ共有できるのかです。その前提としてウェブというものを考えている。そこで捉えたい多様なもののひとつが、時間に抗うというよりむしろ時間のなかで消失してしまっているものを見つめ直すことではないか。そういうことを考えています。
生態的批評性や生態的創造性というものに議論を繋げることは、僕自身も次回までの宿題と考えたいし、非常に興味深いところです。柳澤さんにも、できれば生態学的批評性について、今お考えのことを教えていただければと思います。