ドミニク
こんにちは、ドミニク・チェンと申します。現在私は、ウェブ系の会社の経営とNPOの運営をしております。これまでお話された皆さんとの距離をジャーキングして聞いていました。その距離を縮めるために、まず映像をお見せしたいと思います。私が2回めのラウンドテーブルで話した内容は、未来像を想像して、そこから現在の人間の立ち位置を探ってみるという逆照射的なものでした。これは関西にあるATR(株式会社国際電気通信基礎技術研究所)の「ブレインロボットインタフェース研究室」チームが昨年発表した衝撃的な映像なのですが[fig.14]、BCI(Brain Computer Interface)と呼ばれている領域の研究で、おそらく人類で初めて、被験者が強くイメージした脳内映像を外部コンピュータに出力することに成功した事例です。左にあるイメージが被験者に提示されたイメージ、右が被験者の脳からファイリングしたデータです。右のデータから、十字や四角などのイメージがかろうじて見て取れるかと思います。
前回はこうした映像を見つつ、BCI研究に代表される生態映像メディアについて想像力を働かせてみました。今日は柳澤さんからも提示いただいたように、意識/無意識という構図が自ずと立ち上がっていると思っています。そもそも人間の脳内に生成しつづけ、流動し続けるイメージをアウトプットしたときにわかるであろうことは、いま現在でも自明なことだと思っています。つまり、身体の低レベルな層においては、知覚する、認知するという構造自体が異なる個体の間ですごく密接に相互依存しているということであり、そのことを理解、把握するための分解能、解像度を持たなければいけない、ということです。
今日はみなさんのお話を聞いていて、ジャーキングという言葉は改めて重要だと思いました。平倉さんのお話を聞いていて思い至ったのは、蜘蛛─人間─インターネットといったキーワードは地続きにつながるということです。これはオーストラリアの有名なメディア・アーティストであるステラークが1996年に発表した《ping body》です[fig.15]。
全身裸で身体に電極をつけて踊っているように見えますが、彼が自分の身体を操作しているのではありません。コンピュータがランダムに世界中のサーバにピング(ping)を打つ──サーバにメッセージを投げかけて、それが返ってくるまでの応答速度などを検診すること。つねにピングを打ち続けて、返信がないと何らかの問題が起きていることになる──これはまさに平倉さんの映像にあったジョロウグモのジャーキングですね、ピングをランダムに発行して、返ってくる距離・時間に応じて体に付けた電極に刺激が入力されるというものです。すると、自分ではまったく操作できない身体がアウトプットを表現するわけですが、このときの彼は、人間のデフォルトの知覚では想像することぐらいしかできないような巨大なネットワークそのものと、身体的に密接な関係を持っていることになります。96年の時点ではまだインターネットは黎明期だったのですが、今見ても示唆的な作品だなと思います。というのも後で話しますが、現在ウェブで起きていることは、大橋さんの話に繋げてみると、データとしての自分がつねにそこでは生成され続け、映像であれ、画像であれテキストであれ、自分をリプレゼントする情報はある種のデジタルな鏡像をリアルタイムで生成し続けています。しかし、ウェブではつねにその同一性、リアルな身体的な自分と、ウェブ上で表出されている自分と、さらに複層的な解像度のもとでの、そこにおける同一性の確認というものは失効し続けている状態なのです。つまり、自らの同一性や位置を確認するためのジャーキングがどんどん困難になっているということではないかと思います。
今日はこのような方向から、映像や映像データそのものが、インターネットにおいてどのような生態学的展開をもっているだろうかという話をしたいと思います。そしておそらくは、このラウンドテーブルに共通している、個体性の限界や独我性からの脱却というのはどのように可能かという話になっていくと思います。
次にお見せします映像は、かなりアクチュアルな問題を起こした映像です。音楽グループSOURの「日々の音色」という作品に、川村真司さんというニューヨーク在住の映像作家の方がPVを作りました[fig.16]。
実際の撮影場所はそれぞれ違う場所ながら、Webカムで録画した映像をマルチスクリーンでシームレスに連携していくという仕組みです。これがYouTube上でも人気を博したのですが、今年の1月にペプシがCMで完全なパクリをしてすごく問題になりました。twitterでは、ペプシなんて絶対買わないという機運が高まりました。見ればわかりますが、そっくりそのままです(笑)。もちろん、クレジットをはじめ川村真司さんへの配慮をまったく欠いているのは作法としては言語道断であり、企業として失敗したとしか言いようがありません。しかし、そんな事態を他所目に、イスラエルの携帯会社が第3のパクリCMを作っているのです(笑)。いまでも世界のどこかで、同じやり方で映像が作られているのではないかと思ってしまいますね。こうした事実も含めて考えてみる場合、はたしてこの事態を「ペプシが一方的にマネをしたのが悪い」と収斂できるとは思えず、僕は違和感を覚えるのです。このときになされたペプシ・バッシングは、アーティストを搾取する大企業、グローバリズムの弊害というような構図もあるし、すごく複層的な問題性を抱えていましたが、そこにあるのはすべて怒りの感情なのです。その怒りを微分すれば、アーティストを頂点とするアート制度をめぐる旧来的な信仰のようなものとも言えるでしょう。ただし、これまでにずっとYouTubeを見てきた人ならわかると思うのですが、川村さんが発明した編集形式は、そもそもYouTube上で継承されてきた、匿名のクリエーションの連鎖の延長線上にあるのではないか、僕はそう思っています。YouTube上でさらに源流を探れば、マルチスクリーンで、直接的な関係にない人たちが演奏したソロパートを編集し、シームレスな一曲にまとめた映像が以前からあります[fig.17]。
このように、このケースは、YouTubeで人気がある大衆的な表現形式へのオマージュでもあり、それまでのクリエーションの拡張であるという理解もあっていいのではないか。
オーサーシップ、作者性をどこまで追跡できるのか。この意識との相性の悪さがそもそものウェブの困難な部分であり、面白さでもあると思います。その形式を創造的に拡張してオリジナリティのあるものを作られた川村さんがいます。その立場を得たのであれば、僕だったら、ペプシもパクって、イスラエルの携帯会社も真似してくれたことをすごく光栄に感じると思うのです。自分が発明した形式がこれほど継承されて、連鎖を生んだという事実に対して、です。現在の社会倫理はそのようなことを受け入れにくいですが、ここでも無意識の連鎖を追求していかないといけないのではないかと思っています。さらに映像をお見せしたいと思います。
いまご覧いただいているのは、日本のメディア・アーティストグループ「exonemo」が10年ぐらい前に美術館用の作品として作った《FMS(FragMental Storm)》という映像作品のiPhoneアプリ版です[fig.18]。
例えば「SKATEBOARD」というキーワードを入力すると、ウェブ全体でスケートボードに関する画像、テキスト、映像検索をかけて、ダウンロードされる順にハイスピードでミックスするという、ある種幻覚作用も催すような映像を得ることができます。こうした、ウェブ全体が動的に、超個体的に生成されうるイメージというものは、現在の状況をすごくリアルに表しているものだと感じています。ここにおいて、もうオーサーシップや作者性というのは、人間の概念的な認知限界を迎えているのではないかとも思うわけです。次の例はちょっと宣伝になってしまいますが、exonemoの千房けん輔さんに開発していただき、Creative Commonsで出しているiPhoneアプリ「IntoInfinity」で[fig.19]、ウェブ上に置いてある音源と画像をランダムに落としてきて、それらが勝手にミックスされる断面をユーザーが切り取ると、その楽曲ファイルが生成されて、twitterに自動投稿されて他の人たちと音源を共有することができるというシステムです。
さて、ここまで話してきたことは、「デジタル・コンテツ生成における参加の力学とは何か?」ということや、先にもベイトソンの話もありましたが、「システム理論や生態学的なアナロジーに照らし合わせて、データ生成と流通をどのように理解できるか?」ということ、その果てには、「個人的オーサーシップ」と「共有地(コモンズ)」の再定義が必要なのではないか、といった問題意識と照らし合わせて考えていることでした。現在、ウェブ上のコンテツの流通がどのような事態になっているかということに関しては、昨今の著作権の問題などを通じてご存知の方が多いと思います。これはアメリカの著作権の状況を揶揄したポスターで、「MP3をダウンロードすることは、共産主義をダウンロードすることだ」とあります[fig.20]。
実際、アメリカでは、3000人規模の人間が、アメリカレコード協会(RIAA)から一斉に訴えられた、という状況があるわけです。ここで起きていることの前提にあるのが、若者が携帯やPCを使って生きること、つまりテクノロジー的達成を背景にジャーキングをして生きるために見える視界の解像度と、現在の社会体制の解像度が大きく乖離してしまっているという問題です。インドの中国系のアクティヴィスト兼弁護士のローレンス・リャンは、久しく海賊版DVDマーケットの分析をしていています。中国・インド・東南アジアなどに広く海賊版DVDマーケットが存在することによって、逆に企業がリーチすることが不可能な地域にまでコンテツは流通していきます。また、海賊版DVDが興味深いのは、例えば中国語版ハリウッドの映画を海賊版で買うと、3つの違ったストーリーが楽しめるというのです。つまり、広東語、北京語、上海語等に翻訳されるのですが、翻訳が雑で、同じ物語がまったく別の物語として鑑賞できる(笑)。それはオリジナルのDVDを買うよりも面白い状況かもしれません。
また、日本には活発なコミックマーケットがあり、その構造は一見非常に社会主義的にも感じるものでありながら、つねに新陳代謝が機能し、構造的な中心を生まないことに腐心して自己組織化している。Creative Commonsがやろうとしていることは、一方に旧来の著作権の分野があって、他方に著作権が存在しない領域があるという、これまでの0か1に収斂してきた状況に対して、相互を架橋するために複数の解像度を設けるということです。これは、いままでアマチュアと呼ばれてきた、有象無象としか言いようがない不特定多数の集団と、プロと呼ばれる集団を橋渡しすることによって、創作の場をもっとリアルにしようというもので、例に挙げた海賊版DVDやコミックマーケットのリアリティとも通じる感覚とも言えます。
ニコニコ動画の話が出ないのもおかしいと思われるかもしれませんので、初音ミクに触れておきます。無数の二次創作物が初音ミクというキャラクターを中心に、ひとつのエコシステムを生み出しています。そのうちのひとつの、この二次創作の事例ではまたCreative Commonsライセンスが付与されていて、そこからさらにどんどんリミックス盤が生まれているという状況です[fig.21]。
私は、外部から見たときに自己増殖しているかのように見えるコンテンツのあり方を、システム理論を借りて理解することは可能かという問題意識をずっと持っていて、これまで複数の学者が自律的なシステムの定義を行なってきたなかでも、特にフランシスコ・ヴァレラという神経生理学者の考え方に共感しています。彼は、自律的なシステムは次のようなプロセスによって定義されると言っています。「システム自身を構成するプロセスそのものの生成と実現のために、再帰的に相互依存していくこと、そして、プロセスが存在する領域のなかで、そのシステム自体が、ひとつの単位として見られるものの構成素であること」。とてもシンプルですが、重要なのは、「再帰的に相互依存しているプロセス同士のつながり」ということかと思います。そしてこれに似た構造が、ウェブ上で行なわれている創造の連鎖というものではないか、と考えるのです。ここで、無意識をどう表象するかという話に戻りたいと思うのですが、その前に、このような予測が立ちます。すなわち、結局二次創作の連鎖と言っても、そこに作為や、あるいは利益や利害が働いている限りにおいて、冒頭で柳澤さんが仰った〈意識の呪縛〉から逃れられていないではないかと、それは果たして自律的なシステムと呼べるのかと。そこで、無/意識からの解放はどのように可能か、ということを考えたいと思います。2008年、私とメディア・アーティストの遠藤拓己で、「文学の触覚展」(東京都写真美術館)に、作品《タイプトレース道〜舞城王太郎之巻》を出品しました[fig.22]。作家の舞城王太郎さんに、われわれが作ったソフトウェア「タイプトレース」を使って新しい小説「舞城小説粉吹雪」を書いていただく、という作品です。このソフトの特徴を一言で言いますと、キーボードでタイピングした軌跡をすべて記録し、時間軸で再生するというものです。通常の読書経験というのは、記録された活字を追い、そして行間を読み、想像力を補完させながら書かれていることを理解していくことなのですが、タイプトレースを通すことで、作者の全時間が記録され、作者がタイピングし、デリートした通りに読めるので、作品として定着する過程がキータイプ・レヴェルの分解能でわかるのです。
このように、データそのものが、透明性を保持しつつも歴史性をもって人間との関係を築いているということを、映像として示すことができるのではないかという思いがあります。今日〈意識の呪縛〉や〈独我論的解決〉という言葉を聞きながら、意識や主体性、ドゥルーズの言葉であれば、脱領土化、再領土化という円環的な運動のことを考えていました。そして、それをどのように実装するかということにすごく興味があります。その実践として、例えばtwitterが無意識的コミュニケーション・ツールであると取り上げられることが多いですが、はたしてそうだろうかという疑問もあります。本当の無意識的な連合の場所というものが、はたしてウェブ・コミュニケーションの場なのか、その問題は技術的な問いであると同時に、柳澤さんが仰る倫理的な問いでもあると思います。