柳澤
ひとつの共通する話につながってきているように感じます。今回、全員と言っていいでしょう、再帰的な自己意識の閉鎖性から、どのように作品や装置が抜け出ていくことができるかということをめぐりいろいろな提案をしてくださっています。しかしながら、その拠り所になる身体・身体性については個々に拠り所が違うように思われます。この点をぜひ確認して議論を広げたいと思います。
平倉さんは生態心理学に依拠しつつ、具体的に視覚ではなく触覚、プロジェクションではなくジャーキングというかたちで、その方向性を示していたと思います。つまり、目で見るという事態そのものが、意識の問題、ある種の自意識の閉鎖性という問題と密接に関係している。映像である以上それは視覚的だというつまらない前提ではなく、そういう回路以外でも映像の可能性というものが考えられるのだろうと思います。1回めのラウンドテーブルでは、大橋さんから、17、18世紀を生きた感覚論哲学のジョージ・バークリーにおける触覚と視覚の議論をしていただきました。榑沼さんの仰る「ジャストなチューニング」もまた生態心理学的な認識であり、光が当たっているすべての場所に写真や映像があるのだという示唆は、映像を視覚で捉えることができるものと限定するのではなく、もっと広く捉えていこうという提案であったと思います。ドミニクさんが提示したステラークの《ping body》はサーキット的な身体ということでいうとすごくわかりやすく、それゆえに面白いなと思いました。ステラークのみならず、ウェブ上では、ベイトソンが提示した差異が差異を生んでいく、すべてが差異の連続であるという概念型が、かなりの完成度をもって実現されており、これは皆さんもおそらく体験されていることでしょう。
生態学的アプローチの拠り所となる身体について、皆さんのお考えを一言ずつお聞きできると幸いです。
平倉
身体の輪郭は変更可能です。よく言われるように、道具を使うとき、定規で机の裏に落ちた物をかき出したりするときに身体の輪郭は延長される。しかしこの延長は、たんに物理的な、物質的な延長にはとどまらない。ベイトソンが考えたことですごく面白いことのひとつは、「心の食べ物は差異だ」ということです。ドミニクさんの作品では、タイプする舞城王太郎の「身体」は、物質としてはそこに「ない」。しかしリズムとしてはそこに生々しく「ある」。それはタイプするリズムという「差異」を通して現われた身体だと思います。
ドミニク
ここにソファをおいて、プロジェクションで見られるようにしていたのですが、3時間くらいずっと座りっぱなしの人がいたわけです。で、何を感じているのだろうと思って聞いてみたのです。そうすると、やはりそこに舞城王太郎さんの動く存在を感じていると言う。これはマイケル・ターヴェイのダイナミック・タッチ的な感覚と言えるでしょう。動きのなかに人格をプロジェクションしているのです。そこに、認識論的な身体というものが生成されているのです。ですから身体という言葉は複層的に考える必要があると思います。
平倉
差異が物質的身体と同じように食べられるというとき、大切になるのは動くパターンです。身体は必ずしも物質的な存在ではない。運動する複数のパターンの重なりとして考えることで、身体という言葉が使い易いものになるように思います。
柳澤
平倉さんの議論のなかでは、運動しているということが大事だということですよね。
平倉
そうです。いろいろな種類の運動があると思います。
柳澤
榑沼さんはいかがでしょう。
榑沼
ドミニクさんのお話によって、脳が活性化していくような感じがしました。小さなスクリーンが現在達成していることで判断するよりも、探求の可能性を開いておくほうが面白いでしょう。身体も皮膚の内側だけに閉じこめられているわけではありません。それはそうなのですが、自分の肉体が死ぬまでは、やはり皮膚の内側から逃れられないはずです。自分の肉体の外に、自分の内の精神プロセスのような差異が現われるとき、人はそこに美を感じるとベイトソンは語っていたはずです。内と外の区分は不動ではないにせよ、生きていくうえでは簡単に区分を手放せず、手放せないからこそベイトソン的に美を感じるのだし、ドミニクさんの話に導かれて新しいテクノロジーにも面白さを感じるのだと思います。
「倫理」に関して言えば、私は美術作家のロバート・ラウシェンバーグの言葉が記憶に残ります。複雑に織りなされた複数の器官である私たちは、異なることを沢山することができるにもかかわらず、十分に器官を活用していない、それを自分は懼れるというのですね。精神分析理論で考えれば、器官という言葉を欲動の概念に置き換えてみてもよいでしょう。これは脳を鍛えましょうとか、みんな「頑張りましょう」とか、そういう話ではありません。そう思えば思うほど、複数のさまざまな器官が働くのを妨げてしまう。ラウシェンバーグ的に言えば、それは倫理的ではありません。私はテクノロジーの倫理も、この基準に求めたいと考えています。
柳澤
大橋さんよろしくお願いします。
大橋
自分のプレゼンとのつながりでお話しますと、フェイスというのはボディではないのですよね。だからインターフェイスとか、フェイスブックとかいって、ボディがないことの相性のよさを示している。そう考えると、ドミニクさんが見せてくださった「日々の音色」というPVは、フェイスと背景だけの構成に基づいているという意味では徹底しているとは思うのですが、もうちょっと表現の仕方を考えなければ、本当にフェイシャルなインターフェイスが無限増殖に堕していく、あるいはあたかもそれがコミュニケーションの土壌であるかのようになってしまうと思います。それを肯定する人もいるかもしれません。しかし、フェイス、フェイシャリティというのは基本的には白人のそれなのだ、とドゥルーズは言います。白人との隔たりにおいて、アジア性であるとか中国性、アメリカ性といったものが決められているというわけです。フェイシャリティに本当に一宗教的な偏りがあるのであれば、それはある種、グローバル資本主義のイデオロギーの問題として議論をもっと深めていく可能性があるのではないかと思います。では、私たちにどのような顔があるのか、それは個人が問わなければいけないわけです。では、フェイスに代わるボディとしての顔はなんなのだろうか。プロフィールも使っているしな、と考えると、なかなか難しい。ただメディア環境は、フェイスが持っている実はイデオロギー的な側面、底の底のほうにある偏りといったものを意識して整備するべきだろうと思います。では、身体は何ができるのかといいますと、実は、ラウンドテーブルが始まる前にトイレに行くタイミングを完全に逃して、ものすごい状況で座っているのですが、もはやしゃべっているのは僕ではなくて、僕のなかの僕を急き立てるなにか、早口なのはそのせいで、こういう気持ちとかテンションさえも身体です(笑)。そういう次元でわれわれは生きていて、それによって僕の言葉の説得力が増したり減じたり、生をエンジョイできる。こういうときの自分の写真はフェイスブックには載せないわけですから、でもそれを大事に奥歯で噛み締めながら生きていくというのは、ひょっとして、ボディの可能性かなと思います(笑)。
柳澤
ドミニクさん、いまの点についていかがですか。
ドミニク
私はかなり身体的な話をしているつもりではあるのですが、柳澤さんからは「あなたはいつも情報に行き過ぎる」という、無言のプレッシャーをひしひしと受け取っております(笑)。私は基本的に、多層的であることがリアルな身体感であることを前提とした、認知限界論の立場にいるのだと自覚しています。例えばネット上には、ユーザーが作成した数百億という数のコンテンツが散らかっている。そのことをいくら考えようとしたところで、人間には考えられないと思うのです。社会学では「人間が、それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」を150人程度とするダンバー数という定式がありますが、われわれは近年、こうしたことと同じような認知的上限に出会う頻度が急激に上がっているのではないかと思っています。例えば、携帯電話、iPhoneやiPad、PC、3Dテレビとかなんでもよいのですが、そういったものが出てくるたびに、僕たちの身体性は再定義され続けているとしか言いようがなくて、もはや身体性を自分たちで再帰的に作り出しているのだとさえ思います。最後に紹介したいのが、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」というイヴェントです。真っ暗闇の空間を、視覚障害者の方のガイドにしたがって、90分間体験するというものです。僕は先週体験してきました。本当に闇なのです。われわれ目が見える者は人生の多くの時間を物を見て過ごしているため、闇のなかでも勝手に視覚が投影されるという経験をしました。逆にわかったことは、身体性といったものの拠り所のあやうさということでした。
大橋
ドミニクさんのなかで、認知を超えるものと無意識の違いはなんですか?
ドミニク
たぶん、認知を超えるという意味で僕が使っているのは、数百億のデータのなかから何を抽出するかという、単純に言うと上から下の方向のデータマイニングであり、もうひとつは、自分たちが見たいデータが浮かび上がるように、ボトムアップなデータ設計に関係しています。この場合「データ」という言葉は、ほかに置き換えられると思います。「物質」と言ってもよい。それが認知である一方、無意識というのは、自分の内部から生成されるというよりは、自分でコントロールできない部分です。身体自体はものすごく完成された協調システムだと思います。意識する以前に勝手に自律的に作動してくれるおかげで、自分が自分をフルに使うという意識がなくとも、絶えず稼働しつづけている。これらのことをどう捉えるのかによって、身体への認識は大きく変わってくるという気がしています。
平倉
ベイトソンが最晩年に「聖なるもの」という言葉を出してくるわけですが、彼はそれを、コミュニケーションをしないことと関係づけている。誰かとコミュニケーションしないということではなく、自分自身とコミュニケーションしないということ。ノン・コミュニケーションの回路をつくることです。言ってみれば、無意識の座をずらすということ。その文章は「汝の左手に知らしむべからず」という章に収められています(『天使のおそれ──聖なるもののエピステモロジー』第5章)。
「汝の左手に知らしむべからず」とは、左手のやっていることを私は知らないという状態をつくること、左手を無意識の領域にするということですよね。無意識の座を移すことで、なにか良いことを行なったとしても、それを行なったことを意識しないですむ。ベイトソンが言っているのは、自己というシステムの内部に意識が発生してくる場所を、ノン・コンミュニケーションで囲むということです。ノン・コミュニケーションで意識を隔離することで、偽善や目的意識から隔離された「聖なるもの」が起こりうるかもしれないということをベイトソンは考えています。
一個の身体というのはもちろん統一的なものではない。左手と右手の間に乖離をつくることもできるし、自らの顔を失うこともできるかもしれない。そのような、ノン・コンミュニケーションの回路を自分の身体のなかにどのように構築するかということが、倫理的でもあり、創造的でもあるひとつの実践になるのかなと思います。
柳澤
すごく面白いお話だと思います。最後に少し会場に開いて、ご質問やご意見をいただければ幸いです。先に申し上げましたが、私たちはここにくるまでに何時間か議論をしてきてしまっているので、ようやく最後のほうで、皆様に私たちがどのようなことを問題としているのかということが少し伝わったのではないかと思います。逆に申し上げますと、少し共有するのが難しかった部分もあるかと思いますので、ぜひ何でもご意見などお寄せいただければと思います。