会場 A
平倉さんがお話されたことについて伺いたいと思いますが、左手のやっていることを知らない状態にすること、左手を無意識の領域にすることが可能だとして、ではわれわれは奇跡が起きたことをどうやって知るのか。事後的に知覚してしまったら、それは奇跡ではなくなるのか。お考えをお聞かせいただければ幸いです。
平倉
左手がやったことを知らずにすますということはたいへん難しいことです。たとえ成功したとしても事後的には知ってしまうかもしれない。事後的にも知りえないようなノン・コミュニケーションは可能なのか。例えば、自転車で転んだときに、自分はどのように転んだか、転んだ瞬間にどう身体を使ったかということはわからないし、カメラがなければ事後的にさえわからない。奇跡的に大怪我をせずにすんだとして、そこで起きたことは、身体が外側の視点というものを取れない状態で、何かをやってしまう経験として考えられると思います。同じように誰かに施しをする際に、自分で施しをしたことを知らずに済ますということは、とてつもなく難しいことです。自転車で転んだときに咄嗟に身をこなすのと同じように、転ぶように施しをするということが必要なのだと思います。しかしそれは私の想像を超えています。
柳澤
今回意識化の問題を扱ってきたのですが、おそらく気づくということのなかにもたくさんの位相があるのではないでしょうか。いわゆるコンシャスネスとアウェアネスもかなり違うように。私自身は、われわれがアートや芸術を題材にして集まっている以上、左手でやったことをなんらかの仕方で自己や他者に伝達するという立場にならざるをえないと思います。ただそのときの意識化のさせ方自体をいわゆるコンシャスネスではない気づきへとどのようにしてずらしていけるかということが、かなり抽象的な話ですが、重要になってくるかと思います。
榑沼
そうですね。さきほど平倉さんが出された例でいえば、自転車で倒れた自分を撮影された映像で観ることはできますし、身体の意識されないマイクロスリップを映像が拾い上げることもできるでしょう。とはいえ、観察する身体や、映像を検索する身体は、無意識的に着地を達成した探索する身体からはズレ続けていて、そのズレを追跡すること自体が、映像の面白さと臨界をつくっていくと思います。それにしても、個体や意識を前提としないプログラムの構築実験は、個体が個体として意識的に環境に働きかけることが、ますます困難に思える状況を背景にしているようですね。ドミニクさんの話を聞きながら、それを意識しておきたいと思いました。
大橋
ニーチェの有名な示唆がありますが、われわれが食物を噛み飲み込んでいるとき、ものすごく複雑な動きで食物を奥に送っているのだけれども、そんなことは意識もされないし、まして記述されることもない。でも、ヒトは何万年もの間同じように物を食べてきたわけです。意識しないでしていることはものすごくある。そのことにどの程度信頼性をおくかということなのです。そうしたオートマティズムがあることに気がつかされるのは、歯を抜いたとき、われわれが転んだとき、怪我をしたとき、そのようなときだと思います。実はそこにおいて、トライ・アンド・エラーであるとか、あえて間違えを覚悟で映像化していくということも有効なのではないかと思います。
会場 B
映像作品と生放送、みなさんの視点から見たときにそこにはどのような違いがあるでしょうか。例えばジャーキングを介入可能性、視点をカメラなどの語彙に変えていくことは可能でしょうか。ご意見お聞かせ願えればと思います。
榑沼
スケート中継の話をしたので、私から答えることにします。生放送か映像作品かという区分よりも、決められた結果までの経路に集中してしまうのか、それとも決定されていないプロセス、どうなるかわからないプロセスに映像が触れているのか。その区分のほうが重要ではないかと私は考えます。
「動物の世界は貧しい」とマルティン・ハイデガーは言いましたが、確かに動物は人間のような言語を持っていないから、過去─現在─未来という地平はない、あるいは薄いかもしれない。しかし、ハイデガーが思い描く人間は、未決定のプロセスや予想できないアクシデントを、言語や意識の地平に回収することによって、なるべく回避しようとする。ですから、アクシデント、予想できないもの、決定できないものに対しては、人間は開かれているのではなく、むしろ閉ざされている。言ってみれば、「人間の出来事は貧しい」のではないでしょうか。萌え要素に反応するポストモダン社会的「動物化」ではなく、出来事に開かれた人間の動物化を考えるためには、『ミミズと土』(The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms, with Observations on Their Habits, 1881)のダーウィンのように、反応に収まらない動物の生態を見つめる必要があると思います。
大橋
デリダが『テレビのエコーグラフィー』(Échographies dela télévision; Échographies de la télévision, 1997)という本のなかでテレビにおけるライブ性とは何かということを述べていますが、生放送の画面には「Live」というマークがついていますよね。「Live」とあるプログラムはものすごく高性能なレコーディングマシンを使っているということに注意しなくてはならない。そこにおけるライブネスというのは、結局のところ、デリダの用例でいう「幽霊」のようなもので、何回も繰り返し映像を見せるような生でしかない。そこで、では生は何かというと、青山墓地の女の座っていた座席が濡れていましたという、あのタクシーの座席の水分なのです。結局、生は物質的なものでしか担保されないのではないでしょうか。
会場 B
生放送の場合には、自分がそこに写りうる可能性がありますよね。そのとき、可能性は少ないですが、その場でジャーキングが起こることもあるということではないでしょうか。
平倉
テレビの生放送というのは、周到に計画され、さまざまな制度のもとで行なわれているものだと思います。しかしやはりそこに、不確定な部分は残っている。例えば自分が生出演中に、なにかを言う。その言葉がその後の展開にどのように影響するか、視聴者にどのような反応を引き起こすかは自分では制御できない。誰も制御できない。その制御できないという開き方それ自体が生放送と呼ばれているシステムではないか。その開き方が、「生放送」における「生」という言葉の持っているものではないかと思います。
会場 C
私はいま、鏡像のなかの視覚と眼差しという違いにおいて絵画を見るということにしがみついているので、今日の映像をめぐる大きな議論はとても刺激がありました。視覚、意識で掴めるところには必ず眼差しがあって、その裂け目が無意識とつながっている。これはジャック・ラカンが言う「対象a」という場所だと理解しているのですが、今日の外部をめぐるお話は、「対象a」から無意識に身体が出てくるということだったのでしょうか。外部というものが捉えきれません。
大橋
ラカンの「対象a」もそうですが、ある図式に従ってものが確かに見えますし、そのように思えてくるときがあります。ただ、自分の経験を完全に事後的に見たときに、本当にその図式通りに見えていたとは言えないことのほうが僕は多いのです。つまり、物事がラカンのように見えるということはあまりないと思うのです。そう見えるということとそうは見えないということの偏差のなかに、表象や鏡像空間の外部、あるいは身体性などがあるのではないか、というのが今日のお話だったと思います。自分が何を対象としたときにラカンの図式がマトリクスになり、ならないのか、そこを擦り合わせていくことが実作業上のクリエイティヴィティなのではないかと僕は思います。
柳澤
ご指摘されているのは、なにか超自我的な外部のことなのではないかと思いますが、精神病理学者の中井久夫氏なども述べているように、内と外の区別がないというのは狂気ともいうべき状態であって、内と外というものを設定しないことにはまともな認知など成り立たないのだと思います。けれども、そのときに超自我的な外部を立ち上げるのではなく、あくまでも自己が動くことで、外部とつながって連続していこう、あるいは外というものを捉えていこうという方向性の議論だったと思います。
榑沼
ご質問は『精神分析の四基本概念』 (1964/1973)での、ラカンの議論を指していらっしゃるのですよね。今日の議論とからめてラカンから引き出したいのは、むしろ「擬態(mimicry)」です。木の枝や葉に自らを見せかけ、擬態している昆虫は、鳥に食べられないための「適応(adaptation)」と説明されることが多いですよね。ここで今日の最初の柳澤さんの話につながるかもしれませんが、ラカンが『精神分析の四基本概念』で疑問を投げかけているのは、この「適応」という概念に対してなのです。というのも、鳥のお腹を開けてみると、実際には擬態を行なっている昆虫も結構食べられている。つまり、擬態をしていてもしていなくても食べられている。ならば、擬態を「適応」から説明することは妥当なのだろうかとラカンは問うのです。むしろ重要なのは、動物はすでに「写真」に写されている、光によって描き出されている、自ら映像と化しているということ。他者から見られないようにするのではなく、仮面であれ威嚇であれ、性選択・繁殖のための装いであれ、自らを見せるものに化す(se faire voir)という機能を、ラカンは重視しました。ラカンの議論と接続しようとするならば、生態学から「外」を捉えようとする議論は、「擬態」という映像の問題から再開する必要があると思います。
岡村
ラウンドテーブルは議論を収束させることを一義的な目的として立ち上げたのではなく、今日をもってひとつのユニットをかたちづくる最初のシーズンは、さまざまな議論の連鎖を紡いでいくためだったと、改めて思っています。前2回のセッションと本日の最終討議に誠心誠意臨んでくださった5人の皆様、そして最後までお付き合いいただいた会場のみなさまに感謝を申し上げます。ありがとうございました。