長谷正人
今年の恵比寿映像祭のテーマは「映像のフィジカル」です。フィジカルという言葉には二重の意味があると思います。一つは「物質的/物理的である」こと、もう一つは「身体的である」ことです。「フィジカル」という言葉を映像にぶつけてみることで、映像の常識をずらすという問いかけが今回の映像祭にはあるように思います。
諏訪敦彦
でも、映像はそもそも「もの」(物質)としてあるのでしょうか。僕はよく学生に授業で映像を見せて、「映像はどこにあるのか?」と問います。だいたい学生たちは「網膜にある」とか「脳にある」「スクリーンにある」「映写機の中にある」などと答えます。
でも実際には、素材(対象)があり、スクリーンに映し、反射したものが網膜に入って……という「サイクル」の中で映像が存在しているだけで、映像が「もの」としてあるのか、またどこにあるのかなんて定義できないのではないでしょうか?
長谷
確かに物質としてのフィルムやDVDをいくら眺めても、そこに映像があるわけではないですね。しかし私たちは、どこにも映像はないのにもかかわらず、それがどこか固定された「もの」としてあるかのように語ってしまう。実際はある社会的な仕組み、コミュニケーション、関係性の上に成り立って初めて映像は「ある」ということですね。
諏訪
そうした循環した関係性の中で、映像は「世界」を迎え入れる=撮るのではないか。たとえばリュミエールの初期映画《リュミエール工場の出口》(1895)。工場から出入りする人々を写したファーストシーン。当時の門や壁の感じは現在の私たちの想像力ではとても及ばない力をもっています。まだ映画というものを見たことのない観客に、自分の外側からやってくる圧倒的な「現実」として映像がやってきます。映像というものは、向こうからやってくるものと、こちらが見ることで作り出すこと、この両者がつねに循環し交錯する創造ではないかと思います。
長谷
そのとき、僕らはすぐに《工場の出口》という名前を映像に貼り付けることによって、「ああ、工場の出口か」と短絡的に納得しようとする。そのことによって逆に何かを「見ない」ようになってしまう。しかし命名された以上の何物かが、本当は映像には映っているんだと思います。それは何なのでしょう。
諏訪
先日リヨンのリュミエール博物館に行きましたが、驚いたことに《工場の出口》の撮影現場がまだ残っていました。撮影当時の門や通りは変わっているけれど、唯一、出口の向こう側に見える建物の「梁」だけが当時のまま残っていた。そんなもの気にしていなかったけど、実際に行って見てみると確かにあって、それはちょっとした衝撃でした。
長谷
ああ、梁! 確かに画面の奥の方に写ってましたね(笑)。
諏訪
間違いなくここが撮影された場所だと確信できて、非常に感慨深かったです。僕がいつの間にか初期映画に魅力を感じるようになった理由は、「主題でとらえきれない細部」が映ってしまう映像の可能性なのです。それが映画の豊かさそのものではないか。
当時の観客があの映画を、決して我々が「いま見るようには見ていなかった」という内容を長谷さんが以前お書きになっていましたね。細部や背景など、作り手が意識しなかった部分に当時の観客は驚いていたのです。今より視線の自由があったのだと思う。
また、同じくリュミエールの《赤ん坊の食事》(1895)では、赤ん坊の後ろの葉っぱが揺れている瞬間が、素晴らしい。すごく新鮮に映画と出会った瞬間が甦ってきます。
「葉っぱが揺れる」ことに魅了される感覚。自分が映画を見て記憶に焼き付いているものは、結局そういう瞬間です。あるときはジョン・カサヴェテス[映画監督。1929-1989]の映画の、俳優ジーナ・ローランズの皺であったり、あるときはジョン・フォード[映画監督。1894-1973]の映画に出てくる馬の筋肉や砂埃であったり……。そういうものが映像の豊かさであることを薄々は知っている。でも、私たちはどう扱えばいいのかわからないので、物語は主題や構成に映像をゆだねてしまい、頼らざるを得ないのだと思います。
長谷
リュミエールを通して、僕たちは「風によって揺れる葉っぱ」や「水しぶき」の素晴らしさを学びました。しかし僕たちがいま、その素晴らしい細部を映像で意図的に撮ろうとすると、リュミエールが撮った細部の美しさを捉え損なってしまう。「風」や「水しぶき」を主題として捉えようとした瞬間、それらが「意味をもった何か」に見えてしまうからです。本当は、フォードもカサヴェテスも物語を撮っていくプロセスのなかで「フィジカルな何か」を細部として捉えている。だから僕らは観念的に物語の世界に入っていくけれど、同時にジーナ・ローランズの顔の皺に心を奪われたり、ジョン・フォード映画の馬の足がたてる砂埃が素晴らしいと思ったりできる。それこそ映像体験における「フィジカル」な出来事なのだと思います。ただし映画が終わって、どこがおもしろかったかを言葉で説明しようとすると、物語以外のフィジカルな細部は消えてしまいます。どうしても言葉で説明しやすい物語の部分だけを僕たちは語ってしまう。フィジカルな細部の魅惑は、身体の中には沈澱しているけれども、それが楽しいということをなかなか共有し合えない。諏訪監督は、そういう映像体験において沈殿した細部をうまく浮上させるような作品を作ろうとしてきたように思います。
諏訪
「物語ではなくディテールが映画である」というアプローチをした作品は、いいと思います。しかし、そのこと自体が主題である時点で、結局、もとのスタート地点に戻ってしまう。「意図せざるもの」を「意図した」時点で、それが「意図になる」という堂々巡りですね。