諏訪
僕が最初にカメラを持ったのは高校生の時でした。その動機は世界を発見したかったからです。自分が知らなかったことを知りたい、見えなかったものを見たい。そういう驚きのためにカメラは有効でした。自分ではどうしようもないものが映るということに驚いたのです。
初めて8ミリ映画を撮った時、特に撮るものがないから、とりあえず運動会を記録しました。現像が上がってきて、学校で映写をしてみたら、フィルムトラブルで途中でカタっと上映が止まって、ちょうど映っていた空が燃えだした(笑)。フィルムが燃えちゃったんです。
長谷
いきなりそんな体験をするとは!
諏訪
それがすごくきれいでした。自分の映画においても、映像であることに没入してほしくない、という思いがあります。映像を、燃え上がるフィルムのように、ものとして覚醒して見てほしい。たとえば、《H story》の最後のシーンは真っ白にしましたが、スクリーンそのものを見せたかったからです。それは映像というイメージに没入した世界から、もういちど現実に戻したいという思いがありました。
これと関係しますが、ジル・ドゥルーズが現代映画の特徴の一つとして、編集がうまくいかない“つなぎ間違い”をあげています。たとえば学生の映画はだいたい文法がねじれちゃって、何が起きているのかよくわからない。ゴダールの映画でも、意識的に“つなぎ間違い”をしている。とにかく僕たちは映像を見た時に、世界そのものだと思って没入しがちだけども、私たちの現実は、実は映画の外側にあるのです。“つなぎ間違い”はそのことを喚起させてくれるのです。
単純に「映画は世界である」と信じ込ませたくない。どうやって映像を現実に返していくのか、僕はいつも考えています。
長谷
その通りですが、僕は今日お話ししながら、逆のことを考えていました。「現実自体も映画みたいにできている」と考えることもできるのではないかと。いまここで対談している現実も一種の映画なのかもしれない。私と諏訪さんの対談がこの場所にセッティングされて、「映像のフィジカル」というタイトルが与えられ、話しだす。だから「ここで飛び跳ねてみろ」「川を渡ってみろ」と言われているような気がするのです(笑)。まさに映画です。
現実にはそういうことがたくさんありますよね。たとえば唐突ですが「愛の告白」。自分があたかも俳優であるかのようにちょっとした演出をしないと「好き」という気持ちは伝えられないものです。これは映画を模倣しているのではないでしょうか。つまり、現実もけっこう演技したり、演出したりしていると思います。
諏訪
それはドキュメンタリーの考えですね。ドキュメンタリーの場合、結局、人は撮られていると意識すると、微妙に演技をしてしまいます。カメラマンの田村正毅さんは、小川紳介監督のドキュメンタリーを撮っていました。田村さんは、本当に演技していない人を撮れるのかという問いに対し、「そんなもの撮っておもしろいの?」と答えた(笑)。
カメラの中の現実はつねに嘘で、ドキュメンタリーだから絶対に現実だ、とは言えない。ドキュメンタリーと言っても、カメラがあって演技している人がいる。カメラが純粋で客観的なものだという考えは幻想です。そういう意味では、すべてが映像であるといえるのかもしれない。映像の外側には現実があると考えられますが、そんなものないとも言える。映画と現実には、危うい循環があるのです。
僕は長谷さんとはほぼ同世代で、70年代が中学生、高校生でした。当時はアメリカ映画ばかり見ていたのですが、《狼たちの午後》(1975)という映画がありました。冒頭でアル・パチーノが銀行強盗をします。パチーノが薔薇の花束が入ったリボンのかかった白い箱を持ってやってくるけど、本当は箱の中にはショットガンが入っている。強盗を始める瞬間にぱっと箱を開けてショットガンを構えるのだけど、ショットガンの先にリボンが引っかかってブラブラとぶら下がって揺れている。それがすごく印象に残りました。映画の中で起きることは、ノイズがなくてカッコいいという価値観を壊している。そういうものに憧れていたのに、「なんだ、このブラブラは!?」と(笑)。映画の中で物事がうまくいかないことに、初めて出会ったわけです。映画も現実の人生と同じである、と。その映画を見たとき、「これが世界だ。現実だ」と感じたのです。
長谷
僕らの日常生活のアクションも、ボーっと受け身で世界を受け止めているだけではない。自分が生き延びるために必要な情報と不必要な情報を分けながら、現実に向かってアクションではたらきかける。そのなかで、頭で考えていることとは違う偶発的な出来事が起こってしまう。そこが今のアル・パチーノの話とよく似ていると言えます。現実生活でも、僕らはカッコよく行動しようとするけれどもうまくいかないということを、すごく濃密な形で、70年代のハリウッド映画は俳優によって表現してくれて、観客の共感を呼んだということだと思います。60年代まではレンガの組み立て方をきちっとした映画で、夢の世界を作っていたけど、70年代になって、きちっとレンガを組み立てた橋だけではダメなんだという考えにハリウッド映画もシフトした。人間のさまざまな顔の表情やかっこ悪い身振りなんかをフィジカルに映していった。それがハリウッドなりの「岩の映画」の作り方だったと思います。
長谷
最後に、音についても言及しておきましょう。音と映像を別々に収録していた時代から、80年代以降、ヴィデオカメラが普及して、映像と音が完全にシンクロする時代へと移行していきました。映像というものを僕らがどういう現実として捉えるのか、このとき変わった気がします。「映像と音」がシンクロしたヴィデオカメラの映像を見たときに、それまでとは違ったリアリティを感じ、これで映像が文化的に飼いならされたように思ったのです。映像と音がバラバラなときは、飼いならせないものがありました。例えばぼくら素人が公民館の踊りの発表会なんかを記録のために撮ると、他人には意味が分からないようなカオスの世界しか撮れなくてがっかりしたものです。つまり、映像のフィジカルがそこにはあった。だけど音をシンクロさせた映像だと、その現場の臨場感が伝わってきて素人の映像にもカオスを感じなくなるんです。
諏訪
シンクロしたときは嬉しかったですよ(笑)。絵と音が数コマずれているだけでもかなり違いますから。ぴったり合った瞬間だけ、あるリアリティが生まれるのです。でも逆に、ものを見るという行為がどんどん失われていったという側面もあると思うのです。つまり、音と映像が一致しているとき、それが現実そのままであるかのように安易に思ってしまう。音と映像がシンクロしていることで保障される世界というのは、本当は危ういものです。
長谷
それは音のせいですよね。
諏訪
そう思います。声の問題も大きいといえます。音が一緒に入ると、現実をそのまま記録されたものだという感覚に、何の抵抗もなく思えてしまう。実際にはいろんな音がしているのです。マイクは、人間の耳と全く違うので、関心のある音だけを収録するものではないです。
長谷
人間の耳は、ノイジーな情報をあえて遮断します。いま我々が話しているこの場でも、人間の声が大事だから、僕たちにはそれ以外の雑音は聞こえないように自然となります。非常に性能のいいチューナーを脳が備えていて、自分にとって大事な音だけをキャッチして、そうではない音を自分の脳から排除することができる。一方、テープレコーダーにはほんの微細な音も拾い上げる性能が備わっています。だから大事な人間の声であろうが、ノイズだろうが、平等にキャッチしてしまう。もっともいまのICレコーダーなんかはそこを操作して人間の聞こえ方に近づけてしまうようですが。
音だけでなく視覚に関しても同じです。カメラによる視覚は、僕らが普段見ているものとは違った視覚だから、ノイジーな部分が見えてくる。その視覚と音が組み合わさったヴィデオカメラの映像って、本当は「奇妙な現実」を映しているとのではないでしょうか。僕らが普段体験している現実と似ているけど、ものすごく違う何かを感じます。
諏訪
映画は、台詞を中心に音響によって構成されています。だからノイズはできるだけ抑える。しかしノイズがないとリアルではない。僕の映画では台詞とノイズが同じレヴェルで入っているので、台詞が聞こえないこともあります。身体が動いていることとか、咳をするとか、そういうことが大事なのではないか。俳優が何を言ったかだけが問題なわけではないのです。「ノイズだと思われていた部分」にも何かが表現されているのです。
「音だけで映像がない世界」あるいは「音のない世界」、をもう一度体験しないと、映像そのものを見つめ直すことはできないのではないでしょうか。
長谷
音だけや映像だけの方が、観客の想像力がより高まります。サイレント映画で「ゴホッ」と咳をする映像があるとき、僕らは各々勝手にその咳の音を想像する。
諏訪
《H story》では、どうしても編集がうまくいかなくて、音を全部剥奪する作業をやってみました。そうすると、映像が見えてきた。「見よう」という行為が強くなるのです。音が付くと「映像を見なくて済む」という感覚があります。あの手この手で色々なことをやり、悩んだ末、映像と音をつなげようとしないでバラバラにしようとしました。そうしてあの映画が成立していったのです。映像と音が別々の空間を作り出しているという体験をしたときに、見えてくる映像。そういうものを信じないといけない。
長谷
音によって映像は、飼いならされ、フィジカルさを失っているといえますね。そして最後に一言。リュミエールの時代から、映像文化において、「観念的なこと」と「フィジカルなこと」は常に背中合わせにあったと思います。勝手に並んでいる岩でも、人間が渡ったときには橋に見えてくる。つまりそこに観念/ストーリーができていく。でも、僕らはそれをカメラを通して映像で見たときには、個々の岩の表情とか、それを渡っていく役者の独特の身体の動き方にも同時に魅了される。つまり、相反する「フィジカルでないもの」と「フィジカルなもの」を、同時に受け止めるというのが、映像のスリリングなおもしろさなのではないかと思います。
2011年12月10日 東京都写真美術館にて収録