諏訪
映画評論家のアンドレ・バザン[1918-1958]がロベルト・ロッセリーニ[映画監督。1906-1977]の映画を擁護するために書いたエッセイがあります。
ロッセリーニは戦後ネオレアリズモで活躍し、現実の廃墟を映画として撮った監督です。バザンは、ロッセリーニの映画と彼以外の映画を、「岩の映画」と「レンガの映画」という比喩で、語っています。
川のこちら側から向こう側へ行くために、人間は「橋」を発想し、架けようとする。橋をデザインし、レンガで組み立てれば向こうへ渡ることができる。レンガの一つ一つは全体に奉仕して、それらが積み上げられると「橋」という全体ができる。そうするとアクションができます。通常の映画はそのように作られている。
けれどもロッセリーニの映画は、川が流れていて、そこに元々、岩がゴロゴロとあったところから始まる(笑)。その岩はレンガのように作られたものではなく、川から流れてきて、長い時間をかけてゴツゴツになって、そこにある。人間が作り出したものではない。けれど、ある人が岩をぽんぽんと飛び越えて向こうに渡ったら、そのアクションにおいて、「岩は橋」になります。僕なりの解釈ですが、それこそが映画だと、それがロッセリーニの映画だと、バザンは言っているのです。つまり、岩を渡り、向こうに行こうとする行為=アクションこそが大事で、それが映画だということです。誰かに向けて作るというアクションこそが映画なのです。
長谷
レンガの橋は、あらかじめデザインされています。つまり、脚本を練り上げて入念にセットや照明を準備して作られる、古典的なハリウッド映画のようなものだと思います。つまり、「レンガの映画」はどんどん観念に沿って作られていく。それに対して、「岩の映画」はぽんぽんと川のなかに岩がこちらの意図とは無関係に置かれていて、それらを実際に俳優が飛んでみることによって初めて橋が出来あがっていく。諏訪監督も、そういう偶然性を楽しむような自由な映画を作ってみたいと考えるわけですね?
諏訪
でも失敗するかもしれない(笑)。だから、常に監督の予想の外にある。
長谷
だからこそ、それはスリリングだし、おもしろい。ただ普通に歩くのではなく、川を渡るという危ういアクションを起こすときの身体のフィジカルな反応がおもしろいわけです。
諏訪
川のたとえで言うと、たぶん監督とは、向こうに行きたいと思うかどうか、その意志があるかないかが問われる人だと思います。川の向こうに行くアクションを発動しなければ、岩は橋にならない。それはただの岩でしかないのですから。
僕の映画の場合、一つのショットが全体に奉仕するための一部にはなりません。なぜかというと、人や自然が映っているから、と言ってもいいです。もっというなら「世界」が映っているからと言ってもいいかもしれません。たとえば、人の顔も「世界」であって、本当はどうしようもないものです(笑)。でも、俳優も演出家も照明もなんとかフレームに収めようとする。本当は無理だと薄々気がついているけれど、無理と言ってしまうと映画が崩壊していくので、なんとか収めようとする。顔って、野性的なもので、絶対にわれわれには飼いならせないものなんです。だから、見ていて圧倒的におもしろいし、それゆえに非常に厄介な対象なのです。
長谷
つまり、諏訪さんにとっては、何より顔こそが映像のフィジカルなのですね。ある一人の女優がいて、あるストーリーを演じ、いかにそのストーリーに収まった顔にしていくかが、「レンガの映画」の作り方です。そこには悲しいとか驚くとかいった顔の意味はあっても、フィジカルさが見られない。諏訪さんの《H story》(2001)はそれとは対照的な作り方です。ベアトリス・ダルの演技を始める前の素の顔、演技をしているときの顔、演技が終わった後の顔の表情などがグラデーションのように次々と変化していく。だからストーリーのなかに収まっていない顔そのもののフィジカルな細部が浮かび上がってきます。
さらには顔だけでなく、身体の身振りもまた映像のフィジカルだと思います。カメラを前にした人間が、監督に突然、「この川を渡れ」と言われたとき、型にはまったかっこよい演技ではなく、その人の運動能力や脚の長さに見合った、独特の個性的な飛び方をするはずです。
ベアトリスがただ普通に、レンガの橋を渡って行くかのようにきれいに演技しても、おそらく諏訪監督はおもしろくないでしょう。そこにはかっこよい飛び方という観念はあっても、フィジカルがない。諏訪監督が川を渡らせたいと思ったときに、ベアトリス・ダル独自の渡り方が生まれ、彼女でなければ渡れない独特の橋が生まれるのだと思います。
諏訪
映像はつねにフレームによる「囲い込み」と言えます。どこにカメラを向けるか、何を選ぶかという編集も含めて、なんらかの世界を囲い込もうとする。その囲い込もうとしたことが、つねに内側から食い破られる可能性を秘めているのです。たとえばベアトリス・ダルの動き一つによってもね。
長谷
もうすこし厳しい現実に引き寄せて考えてみましょうか。「3.11」以前に起きたスマトラ島沖地震のときにヴィデオカメラで捉えられた津波の映像は、それまでのCGなどを使って作られた観念としての津波とは違う、津波を経験した人でしか撮れないフィジカルな「現実」を見た気がしました。その映像をクリント・イーストウッドが研究して、《ヒア アフター》(2010)の冒頭で主観的な経験としての津波を再現した。この映画が日本で公開されている最中に、東日本大震災があり、同じようにヴィデオカメラの津波の映像を見て、たいへんな衝撃を受けました。
諏訪
「3.11」の津波の映像は、僕はテレビで空撮の映像を見ましたけど、あんな映像は見たことない、と思いました。津波についてこれまで僕たちが思い描いていたイメージと、スマトラの時に見た映像とも違う。人が築き上げていったものが、全く無感動に消えていくさまを見た気がします。
映像によって「人間を超越したもの」と出会ってしまうということが時々起こります。それが起きたときに映像の今までのリアリティが通用しなくなるのではないでしょうか。
「3.11」だけでなく「9.11」もそうでした。カタストロフの局面に、映像がむき出しの「映像そのもの」として立ちあがってくる。
テレビに映っているものの中で、あんなに何にもコメントできない映像はありません。今、テレビで流れているものは、何か言えることばかりでしょう。その正反対の映像が写っていた。
長谷
普段、テレビはつねに映像を通して「意味のあること」を僕らに届けようとしています。ところが津波の瞬間、映像に意味を付与することが不可能になってしまった。撮っている人にとっても何か圧倒的にフィジカルな「現実」が押し寄せてきて、茫然とするしかなかった。だから、いつもなら映像を「撮る人」から「見る人」へと意味を伝達する機能が、津波の映像にはありませんでした。
何の意味も付与されていないフィジカルな津波の映像の余白に、それでも僕らは「自分達が築き上げてきた文明が押し流されている」という意味を辛うじて与えたにすぎないと思います。映像って、それくらい残酷なんだと思う。