日記と写真、日常の意味づけ

榑沼
明治20年代から日記が普及したという坪井さんの指摘がありました。それは1880年代後半ですから、「You press the button, we do the rest」を謳うコダック社の製品に代表されるように、アマチュアによるスナップ写真が普及する時代でもあります。日記や日記的写真によって、日常を意味づける欲望があったのかもしれません。

坪井
カメラには無意識にせよ風景に対して「意味づけ」をする性格がありますよね。日記も単に些末なことを書くだけなんだけど、それだけだったら書く必要がないので、「意味づけ」が必要になります。それと日記には日付が入ります。エッセイや手記と比べ、日記においては1年365日という時間の秩序を絶えず意識しながら、日付を刻んでいくことが不可避です。これはブログでも同様ですね。日付が刻印されなかったら、それは日記とは言えないものになるのだと思います。
 僕はもう日記の時代は終わったと思っていたのですが、ブログのことを考えると、むしろ今ほど日記的な状況はないのではないかとも思います。しかしブログは他人に読まれることを前提に書くわけで、そこには読者がいます。その意味ではブログは「パブリック」なメディアと言えるでしょう。一方、鉛筆やペンで書く日記の場合、基本的に読者は自分自身か、あるいはもし自己以外の読者を想定するなら、日記を書いている自己を見ている神といった超越的な存在です。
 日記とブログは紙とインターネットという媒体の違いはありますが、共通するところの方が大きい。「日記的」という状況は現代の状況として強固にあるような気がします。

榑沼
ブログやTwitterも日付をもった日記のようなものですが、秘密の告白・独白としての日記のように鍵をかけた箱に入れる必要はない。公私の境界が曖昧になっているのかもしれません。しかし、18世紀終盤にカントが論文「啓蒙とは何か」で示した区分に従えば、届くか分からない「世界」に向けて呼びかけるのでなければ、それはもともと言語の「私的使用」でしょう。「私」に問いかけてくる「世界」に何とか応えるのが、言語の「公的使用」です。だからこそ「パブリック⇄ダイアリー」の往復が今日、ますます重要なのだと思います。

坪井
ベアトリス・ディディエの『日記論』などがそうですが、西洋においては、日記の成立は資本主義の成立と関係があるという見解があります。日記の記述に含まれているコンテンツが財産になるという観念が生じたとき、「日記という文化」が始まると考えられている。そのときの財産とは「私有」の財です。ところがインターネット上のブログには、半ばパブリックで半ばプライヴェートな領域ができていて、必ずしも私有の財とも言い難い。私的なものを公共財にしていくという、いわば常に「リサイクルされるような言葉」を書いているのです。日記とブログは、フォーム自体は同じなのですが、その点が決定的な違いですね。

岡村
いずれにせよ、今世界に向けて本当に何か発言しようとするならば、相応の覚悟をもって臨むべきだろうと思いながら、現実には生ぬるく整備されていない言葉が漏れ出ているし、そういう種類の発話が許される半ば公的なチャンネルも存在する。逆に言うとあくまでも私的な言葉であっても、パブリックの領域に出てきてしまう。ゆらぎや矛盾をはらんだ「私」という「最後の砦」すらパブリック化という抑圧にさらされてしまうという逆説的な現象もあるように思います。公私のグレーゾーンの幅の広がりは、良いこととも悪いことともとれるのではないでしょうか。

タイムラインの中からナラティヴが生まれる

岡村
ブログなどあらかじめ用意されたサーヴィスには日付が自動的に入ってきます。世界共通の日付が刻印されることによって、必然的に、共通のタイムラインの中に膨大な私的な言葉や事象が共有されます。といいつつ、昨今のソーシャルメディア・カルチャーにおいては、再読する余地のあるタイムラインは、膨大なようでいて、実は可読できる時間はきわめて短い。

榑沼
Twitterはどんどん増殖していくので、読み通すためにはスクロールに時間がかかり、私などは途中で読むのをやめてしまいます。この調子では、歴史家にはなれそうもありません。

岡村
私はもともと映像メディアの専門ではなく、一般的な美術史を学んできました。当初は絵画を一点だけ取り上げて審美的に見るのが苦手だったのですが、回顧展でなら、好き嫌いを越えて複数の作品とその間の変化を読むことができた。イメージとイメージのあいだの変化を、ナラティヴなもの、つまりタイムラインとして読みとっていたのだと思います。  タイムラインの中には公にしなかったドローイングやメモなどが入ってきます。特に物故作家の回顧展にはそれが多い。展示をトータルで見た時に初めて、1枚の作品が理解できた気がするということが往々にしてあります。タイムラインに沿って残されたイメージをつなぎ合わせることは、もしかしたら映像における「シークエンス」(シーン+シーン)と似ている経験ではないでしょうか。

榑沼
個別のイメージや言葉を徴候と捉え、「シークエンス」としてつなぎ合わせることによって、様式や作家性を推論していく方法ですね。こうした方法は、カルロ・ギンズブルクが論文「徴候:推論的範例(パラダイム)の根源」で論じたように、医師フロイト、医学部卒の絵画鑑定者モレッリ、元医師の推理小説家コナン・ドイルを目印として、1870~80年代に顕著になったようです。坪井さんの指摘する日記の普及と同時代ではないですか。個別の状況、事件、資料の些細な事柄に目をとめる点で、日記やスナップ写真と「推論的方法」は類似しています。医者による症候の記録、これも日記の一種でしょう。また、岡村さんに触発されて言うなら、1880年代は映画誕生前夜です。

岡村
動画も複数のイメージが連なることによって動きだし、本来なかったはずの「ナラティヴ」を生み出しています。タイムラインとイメージが組み合わさることによって、そこに見えているもの以外の何かを生む。それは、日記の断片を読み解くとき、飛躍や整合性のつかないゆらぎも含めて1人の人間像を思い描くように、映像をシークエンスで読むこと、つまりタイムラインで読むことが、映像における日記的なものを考える際、興味深いことのひとつではないでしょうか。

坪井
日記を読む人はある1日の日記だけを読むわけではなく、ある日の日記とある日の日記の関係を読んでいる。まさにそれが「ナラティヴ」と言えます。でも、それは書き手の意識とは違うものですよね。一冊の本に編まれたり、写真でも絵画でも、アーカイヴみたいな形でまとめられます。隠しておきたい日記がアーカイヴ化され、絵画でもスケッチなどが人前に晒される。他人のプライヴァシーを覗き見る行為なのに、当たり前のようにわれわれはそういうものを見ているのだけれど、それで本当にいいのだろうか、と疑う気持ちもあります。  一方、時系列で読むのではなく、共時的に日記を並べ比べて読むという受容の仕方もあります。たとえば2011年3月11日の日記を、複数の書き手の日記を読み比べるということは、あり得ますよね。そうした読解行為は歴史家がやってきたことでもあります。

榑沼
記録される日記的なものの数量が21世紀、想像不能な天文学的数字に到達してしまうと、歴史家の「推論的方法」も新たな挑戦に会うことになりますね。個別の事例を意味のある徴候として扱うことや、歴史や作家性をひとつの像に結ぶことがさらに困難になるかもしれません。それでも歴史性や作家性を読むことは継続されるはずですし、意味がある営みだと思います。また、アーカイヴや検索の具合によって、予期しなかった共時性や「シークエンス」が制作可能になることも、時にはあるはずです。

岡村恵子