次に、「視知覚と触覚性」というテーマに進みたいと思います。リンチは自らがクロースアップを好んでいることを自覚して、こう言っています。
「ぼくは必ずしも腐敗する死体を愛しているわけではない。しかし、腐敗する死体には驚くべき質感(texture)がある。きみは、腐った動物を見たことがあるか? ぼくはこうしたものを見るのが好きだ。ちょうど木の切り株や小さな虫やコーヒーカップや一切れのパイをクロースアップで見るのが好きなのと同じくらい。近づけば、質感(texture)はより素晴らしい。」(David Lynch, Catching the Big Fish: Meditation, Consciousness, and Creativity, Tarcher, 2006, p.121. 訳は発表者による)
テクスチャーの素晴らしさが、その物質が記号──死体、切り取られた耳、白塗りの顔──として意味するグロテスクささえも超えるという理解は、第一にリンチの触覚的クロースアップを支える論理であるようです。多少蛇足になりますが、こうした論理自体、ホラー映画を支持する中原昌也の言葉にも通底するものがあります。
「ネガティブなもの(つまりくだらないもの、悲惨なもの、どうしようもないもの、ダメなもの……いろいろ)に対して妙に意味された言い方をして、いかにも価値あるようなものに見せかけるのは、本当の全肯定には向かっていかない。」(中原昌也『ソドムの映画市』洋泉社、1996、p.3)
事物に外側から価値づけをするのではなく、事物に内在する性質に対する知覚を尽くすことによって、またその性質を異なるスケールにおいて知覚することによって、自ずとネガティヴな記号的価値がポジティヴな価値に変わるのです。クロースアップによって、事物に内在する性質に対して知覚を尽くすことで、おのずとネガティヴな記号的価値がポジティヴな生態学的価値に変わっていく。これがひとつの非常に興味深い効果ではないか。しかも私たちは、先にも確認したように、このような知覚に、何か知覚を超えるような体験としての精神的なものを勝手に見出してしまうわけです。
このようなリンチ的な触覚的知覚、つまり事物を舐め尽くすことによって日常的知覚を超えるかのようにみなされる知覚とは、しかし、より自然科学的なタームによってどのように言明することができるのでしょうか。ここからは、いよいよ生態心理学の知見も応用しながら、考えていくこととしましょう。ギブソンの理論の応用分野としてジョゼフ・アンダーソンらによって進められている生態心理学による映像学は、映画を象徴的なものとみなし、言語のように扱おうとしたかつての記号論的アプローチを退け、また映画のなかに政治性を見出していくフィルムスタディーズとも異なる方法を採ります。まずは、生態心理学による映像学の、基本的な定義を列挙してみましょう。
❖生態心理学にとって、映画とはそれ自体知覚可能な、包囲光によって構成された情報(information)の塊である。
❖映像として再現されたものであっても、世界を直接に知覚する場合と同様の法則に従って知覚する対象であり、その意味ではひとつの現実(リアリティ)である
(J.D.Anderson, Preliminary Considerations, in J.D. Anderson and B.F.Anderson ed., Moving Image Theory: Ecological Consideration, Southern Illinois University Press, 2007, p.5)
❖生態心理学では、包囲光内の情報は、行為者が自らの行為のために利用するものである(=アフォーダンス)。
また、以上のことを前提に、シーナ・ロジャースは映画製作をこう定義します。
❖映画を製作することは、新しいシンボルや新しい言語を発見することではなく、情報の利用可能性を指示することである(”Not to invent new symbols and new languages but to direct the availability of information.”Sheena Rogers, Through Alice's Glass: The Creation and Perception of Other Worlds in Movies, Pictures and Virtual Reality, in Ibid, p.225)
こうした生態心理学的な映像の定義に従って、先に発見した映像における触覚性について考察してみたいと思います。生態心理学では、私たちにとって世界の意味を教える知覚に大きな役割を見出すので、さまざまな人工物における一見不自然で現実離れした表現も、リアリティの知覚のなかに含みこんでいく傾向があります。例えばすでに挙げたモネによる触覚的絵画について、佐々木正人は以下のように述べています。
「高階[秀爾]が『触覚的価値』とよんだこと、宇佐美[宇佐美圭司]が『コグニション』とよび、モネの点描画に描かれたことは、おそらく視覚の不変である。印象派から現代絵画の誕生にいたる軌跡を、一枚の絵の構成だけに注目し、その『形』の変遷だけを問えば、それは確かに伝統的な意味では『視覚』的ではなくなる。だから主観化への変化ということになるのかもしれない。しかし、そこに構築された表面の細部に注目する時に発見できるのは、どこまでも視覚のリアルに近づこうとする画家の『還元的情熱』なのである。」(佐々木正人『レイアウトの法則──アートとアフォーダンス』春秋社、2003、p.58)
ここで言われる不変(invariant)とは、私たちが対象をそれとして直接知覚するための情報のパターンのことです。睡蓮には睡蓮の不変があり、水には水の不変がある。この不変はひとつの視点から捉えられる形状ではなく、あくまでも変化や運動のなかで捉えられる情報のユニットでもあります。佐々木は、モネが水面に身を乗り出して移りゆく光の変化とともに記録した睡蓮や、多視点から触知的に捉えられたキュビストたちの楽器や食器を、主観的な構成物ではなく、世界の側にある不変として(少なくともその不変への接近として)捉えるという魅力的な解釈を提示しました。
重要なことは、佐々木によれば、私たちの視覚にはそもそも対象の変化や運動を多視点的に、ある意味では近づいて舐め回すように知覚するという、つまり私たちがこれまで触覚的と名づけてきた知覚の様態が含まれているということです。例えば、机の上のこれがペットボトルだとわかるためには、1点から見ていてもだめで、動きながら手に取りながら、この情報を獲得することでペットボトルという情報を持つことができる。そう考えると、先ほど私たちはクロースアップが映像の特殊な技法だと考えてきましたが、それは日常的な視知覚における限りない接近として捉え直すことができます。
私たちが生存のために日々行なっている環境のアフォーダンスの直接知覚とは異なって、映画や映像などの知覚というものは、他者が発見したアフォーダンスにすぎないということは確かにあります(『レイアウトの法則』59頁)。その意味で、これらの映像は世界の直接知覚そのものではないのだけれども、私たちがクロースアップによるショットと一点透視図法的な人工的なショットとを比較したときに、環境の直接知覚に近いクロースアップのほうにある説得力や親しみやすさを感じる。このような直接知覚への限りない接近に、日常的知覚を超えるような幻惑を見出し、私たちはこうした知覚経験を倒錯的にも「内面的・精神的」と名づけてきたのではないのか。ひとまずはこのように言えるように思います。
以上において、私たちに精神性さえも感じさせる触覚性こそが、むしろ日常的視覚の本質であるという見通しが立ちました。しかし、問題はやはりそこまで単純ではありません。スクリーンに映し出されたものをあたかも現実の世界であるかのように知覚するということが映画という制度を成り立たせている約束事ではありますが、映像作品のなかにはむしろ非現実的なもの・不自然なものとして知覚されることを目指している作品もあります。今回取り上げているリンチの作品もまたその代表的なものであり、夢や白昼夢のように感じられる彼の映像を評して、私たちはシュールレアリズムと呼称したりするわけです。映像の非現実性・不自然さについて考えるためには、カメラや編集機器などによるテクニカルな加工も問題にしなければなりませんが、今回はこの問題には立ち入らずに、映像における最も基本的な要素について、生態心理学の知見を応用しながら考察したいと思います。
まず一点目に推測できるのは、知覚はすべて意識化されているわけではないので、たとえ舐め回すような触覚性・クロースアップが日常的視知覚であったとしても、それをすべて意識化できるかたちで差し出されるとリアリティを超えているほどの強度を持ってしまうのではないかということです。ですから、舐め回すような触覚性やクロースアップが日常的な視知覚であったとしても、それをすべて意識化できるかたちでリンチの作品のように差し出されると、ある強度として日常性をはみ出していく。その意味で、リンチの映像やモネの絵画は、リアリティでありつつもリアリティを超えているのではないか。これがまず重要な1点めになるのですが、2点めがさらに重要で、リンチの作品の決定的な不自然さ、あるいはリアリティのなさは、探索する身体が極端に縮減されているからなのではないか、ということです。生態心理学においては、生存のためのアフォーダンスや事物の普遍といった情報を知覚するときにいちばん大事になるのは、身体を使った探索です。この点についてはベンヤミンも、建築に対する気散じ的な知覚、要するにある建物に入って慣れていく知覚というのが、映像の知覚に非常に近いのではないかと指摘しています。しかし、当然のことではありますが、編集によって成り立つ映像作品は「探索」しているかのように錯覚させるように再構成されているだけで、そこには観者の自由な「探索」はありません。ロジャースは、映画の知覚が現実の知覚に限りなく接近することを述べたうえで、両者の違いは、映画では知覚のエージェントが、「探索」のために行為できないという点だという指摘を行なっています。そもそも多くの映像はモネの絵画のように、「探索」の記録でさえありません。この点については先ほどから挙げているロジャースやジェームス・カッティングらの研究があり、残念ながらいまだ十分に咀嚼できていないのですが、ハリウッドスタイルの映画は空間移動の矛盾をナラティヴに依存することによって解決していることが多いようです。リンチはこうした映像知覚における「探索」の不在という特徴を、人工的に操作・強調していると言えるでしょう。
まずリンチの作品では、どの作品の室内描写においても、どの部屋と部屋がつながっているのかが極端にわかりにくい。さらに最新作の《インランド・エンパイア》では、「探索」の可能性が極端に縮減されています。例えば主人公(ローラ・ダーン)のもとに隣人が尋ねてくる比較的最初のほうのシーンで、隣人の顔のみをクロースアップする際に、隣人にではなく背景の部屋に焦点が合っていたり、執事がコーヒーをふるまう際に、カップに注がれるコーヒーには極端にクロースアップするのに、執事が「砂糖とミルクをどうぞ」と言うことによって、観者が自ずと砂糖とミルクという情報を探索しようとすると、突然カメラが上方に動いてお盆の上の砂糖やミルクだけが画面からはみ出るといったような操作がなされています。要するに、執拗なクロースアップによって観客の直接知覚と同等、あるいはそれ以上の強度のテクスチャーがバンバン出てくるのに、情報を探索する観者の身体が極端に制限されている。これが、リンチの作品の特徴だと考えられるのではないでしょうか。
リンチの作品をもっと細かく分析したいところですが、ここまでたどってきたプロセスをざっと見直してみます。映像における触覚性から分析を始めましたが、しばしば精神的なものの表現として解される触覚性は、むしろ日常的な視知覚に限りなく近いことを確認しました。リンチ作品の舐めるようなクロースアップやテクスチャーの強調といった表現は、日常的な視知覚の、通常は意識化しえない範囲まで全部を意識化可能な仕方で提示しているという点で、確かになにか変な感じを与えるけれど、それは私たちの日常的な知覚に含まれるものだったわけです。けれども、それだけでは、リンチの作品の不自然さ・非日常性は説明がつかない。その原因を、私たちは生態心理学が主張する情報の「探索」という契機のなかに探っていった結果、探索する身体が極端に縮減されていることを発見しました。
執拗なクロースアップによって、直接知覚とほぼ同じあるいはそれ以上の強度の質感(テクスチャー)が情報として知覚されるにもかかわらず、情報の「探索」可能性が極度に制限され、また「探索」プロセスの知覚も極度に縮減されている。これがリンチの映像作品の特徴だと言えると思います。この不自然な知覚に、私たちは非現実性を感じ、リンチの映像を夢や無意識、あるいはシュールレアリズムと評するのだと思われます。また、この生々しい知覚と矛盾した探索する身体の不自由さに精神の働きを見出しているように思います。少し大げさな言い方をするならば、リンチの映像が上述のような不自然な知覚によって表現しているのは、精神のある種の呪縛だと言えるかもしれません。リンチの作品では、ナラティヴにおいても、自らの精神が生み出す思い込みや強迫観念に引きずり込まれた登場人物が悲劇的な最期を迎えるわけですが、観者はナラティヴを理解するレヴェルに先立ち、映像を知覚するレヴェルでも、こうした精神による囲い込みを体験していることになるのです。
生態心理学の知見に従うならば、映像とは、限りなく現実の視知覚に近いひとつのリアリティにほかなりません。リンチはそのようなメディアにおいて、あえて現実の視知覚における特定の要素を強調し特定の要素を縮減することによって、映像における精神の働きを表現しているとも言えます。絵画にしても映像にしても、観者あるいは作者の自意識や主観といったものを意識化させるという手法は珍しくありません。しかし、例えばフレームやカメラを象徴的に見せてしまうといった、メタ構造を説明的に暴露するような手法ではなく、あくまでも知覚のレヴェルで(意識が及ばないレヴェルも含めた)精神のある意味では否定的な働き・呪縛を痛切に体験させる点に、リンチの卓越した表現と、こう言うことが許されるならば極めて倫理的な実践があると私は考えます。
エナクティヴ・アプローチや生態心理学では、精神と身体はもはや分けることはできず、すべてを連続的な認知プロセスとして捉えなければいけないと言われていますが、私たちの精神はどこからはじまっているのかという問いは、ますます捉えがたいものになってきている。この捉え難い認知の構造を、追体験可能な仕方で顕在化させること、これこそが映像というメディアの可能性であり、担うべき批判性であるということを述べ、今回のラウンドテーブルの議論のひとつのはじまりとしたいと思います。