■質疑応答 1

岡村
どうもありがとうございます。いまのプレゼンテーションを受けて、皆さんが自分のどういった関心につながっていきそうかをコメントいただければと思います。

平倉
とても面白かったのですが、お訊きしたいことがひとつあります。《インランド・エンパイア》の冒頭のシーンでは隣人(グレイス・ザブリスキー)が出てきますよね。お訊きしたいのは、その「隣人を愛せるのか」ということです。その隣人はものすごく不躾にやってきて、どんな映画に出演するのか、殺人シーンはあるのか、と主人公(ローラ・ダーン)に執拗に訊いてくる。最後には「Brutal fucking murder!」と言い放つ。その4文字言葉を聞いてようやく主人公は拒絶するわけですが、もしそれを言われなかったとしたら、隣人は丁寧に扱わなければならないから拒絶できない。ですがこの隣人は、絶対に丁寧に扱えないようなやり方でやってくる。その押しつけがましさをどう考えるのか。舐め回すということをおっしゃっていましたが、舐め回すことは本当に倫理的に善なのか。死体のテクスチャーを愛することは善なのか。死体のテクスチャーが好きだと言うときには、テクスチャーを愛するために、それが死体になってしまうくらい暴力的にクロースアップしていってもよい、ということも言えるわけです。そのような隣人が私に向かってやってくる。あなたの内臓が見たいから、ちょっとお腹を開けさせておくれと。そのときにどういう状態になるのか。倫理を考えると、舐め回しの規範性を本当に一方向的に考えてよいのかなと思うのです。

柳澤
リンチに関しては、舐め回しを肯定することによって作品を成り立たせていることは間違いありません。舐め回しの問題は、中原昌也の言葉を引いたように、ホラー映画の問題とも関わっています。つまり、作品を外部から眺める場合には、暴力は極めて非倫理的で唾棄すべきものですが、クロースアップは作品内部において暴力に必然性を与えるものである。そこが非常に重要な点だと思います。舐め回し=クロースアップもまたそれ自体ある意味暴力でしょうが、現実に潜在する暴力を必然性として眺められる地平に立たせるということ自体には、倫理があるとも思います。もう一点重要なのは、リンチにとって最も暴力的なのは、リアルな他者よりも、むしろとんでもない思い込みや強迫観念によって経験する身体さえも蝕む、私たちの意識のほうなのだと思います。《インランド・エンパイア》の隣人も、リアルな隣人であるというよりも、主人公のオブセッションの表出なのではないでしょうか。

平倉
《インランド・エンパイア》のいちばん最後のシーンに口パクがでてきますよね。ニーナ・シモンの「Sinnerman」に合わせて皆が手拍子をするなかで女性が歌う。《マルホランド・ドライブ》(2001)[fig.6]でも口パクがでてきます。映画はしょせん口パクにすぎず、思い込みはいくらでも作成できるし、いくらでも解除できるということなのかもしれません。そこには思い込みという観客のパラノイアに対するある種の批評性があるとも言えます。ですが、その程度の批評性は、ポストモダニズム以降にある程度まともに考えている映画監督であれば、誰でもやらざるをえない程度の批評性です。そこに本当に、なにがしかの根底的な批評性があるのかどうか。そこに少し疑問があります。 《ブルーベルベット》では女性が殴られますね。普通のセックスでは満足できないから。そういうふうに映画の知覚的ショックを上げていくことは、一方で観客の知覚が疲れていることと対になっている。映画を観にくる人たちは皆疲れているから、寝ないですむような映画が観たいわけです。しかしその方向で映画の強度という問題を考えていいのか。ベンヤミンの「気散じ」の理論を出されていましたが、「気散じ」という言葉はすごく変ですよね。なぜ「気散じ」と「ショック」がベンヤミンではひとつになるのか。『複製技術時代の芸術作品』において、ベンヤミンが対決していたのはファシズムですが、ファシズムは当時の最も強力な映像文化であって、民衆を純粋な強度に満ちた、熱狂的な映像のなかへと巻き込んで共同性を立ち上げようとする運動だった。そういった共同性と対決するときに、ベンヤミンは「気散じ」状態での「ショック」経験という、ほとんど矛盾した言い方を出してくるわけです。気が散ることは、ベンヤミンにおいては、共同体が要求する硬直した身体の強度から逃れて、身体をほぐしていくことにつながっている。そういった気散じの可能性を、リンチのなかに肯定的に見出せるのかどうか。私はリンチという人は「疲れている人」だと思っています。疲れすぎていてうまく気が散ることすらできないときに、女性を殴りつけたりすること以外の可能性が知りたい、というのが私のコメントです。

榑沼
柳澤さんの発表で、ぼくのなかでも何かが動いたような気がします。いまこの段階でお聞きしたいのは、感情や情動の問題です。今回のキーワードのひとつは知覚ですが、知覚と倫理をつなぐ媒介として感情や情動の問題を考えられているのか、それとも媒介を不要とする論理を立ち上げようとされているのか。その部分をお訊きしたい。お話はされませんでしたが、配布された資料には参考文献に感情・情動をテーマにした本も挙げられていますよね。

柳澤
情動の問題は非常に厄介なので、今回はあえて完全に割愛しました。つまり、感情や情動は単位として非常に捉えにくい。作品を分析していくときに、例えば触覚性やクロースアップの問題と感情移入の話はおそらく切り離せません。しかし、そこで情動や感情という言葉を先に出すよりも、先にどういう仕方で知覚が作動しているのかというところに踏みとどまって分析してみたいし、そこで頑張らないと、情動や精神の働きの捉えどころのなさにすべて飲み込まれてしまう、という危惧があります。そこから精神分析の問題も出てきてしまう。リンチの作品は圧倒的に精神分析的に解読されていることは前提としてあるのですが、その手前のところで、より精緻な分析が必要なのではないかと感じています。

榑沼
倫理と編集をつなぐ回路は、まだ自分のなかでは動き始めていません。ただ、今回の報告ですごく重要だと思うのは、「探索する身体が縮減される」という部分です。ぼく自身、かつて『10+1』(INAX出版)という雑誌の連載のなかで触れたことがあるのですが、映画におけるこの問題はもっと展開しなければと考えていました。たしかに1970年代の映画装置論でも似たことは論じられていたかもしれません。例えば、映画館のなかの暗闇で映像を観るということは、日常的な歩き回る身体を拘束し、光や音の配置によって観客の注意を操作する技術であるというように。しかし、映像の中身の分析もすべて探索する身体の問題として行なってみる。探索する身体、探索する知覚システムをどのように編集するのか、どのようにエディット・アウト(削除)して、どのようにエディット・イン(挿入)するのかという、すべて知覚編集の問題として把握しようとするアプローチは面白いと思います。柳澤さんの報告を聞きながら、自分のなかでも何かが動いたように感じたのはそこです。

柳澤
榑沼さんもご存じだと思いますが、私たちは探索によって環境のなかに情報を獲得することで、その環境のなかに自分が確かにいるんだ、という自覚を同時に得ることができるという点が非常に重要です。映像を観る者に探索する身体がないということは、映像のなかにある身の置き場のなさとも非常に密接につながっている。多くの映像は、観者が「探索」できている、世界のなかに自己を発見できているかのように錯覚できるよう、編集されているとひとまずは言えそうです。リンチはその真逆のことをやって、意図的に身の置き場のない空間を提示している。また、先ほど平倉さんが指摘されたように、われわれの知覚が疲れているということもおっしゃる通りですし、リンチがその疲れた知覚を癒すどころか、徹底して疲れた知覚を探究していることも確かだと思います。おそらく、リンチにおいてはこうした疲れと、探索する身体の不在・縮減、そして世界のなかでの身の置き所のなさが、密接に関わっているのではないかと思います。

大橋
次の僕の発表で、知覚、とりわけ視覚と触覚に関して、350年くらい前の原理的な話を少しさせていただきます。それに関連して伺いたいところがありました。先ほどの平倉さんの議論にも間接的にですが、関連しているのではないかと思います。柳澤さんが参照されたリーグルの定義によるならば、「対象との距離(遠さ)」「深さ」「膨らみ」が視覚的であって、その対比である触覚が「対象への接近(近さ)」「表面」だとされている。ここまではわかるのですが、「平面」の分類について少し疑問があります。これは大事なキーワードですよね。「平面」とは、映像を映すときに絶対に必要ななにかであり、カンバスを掛けることにも関わってきます。この観念については、僕も考えなくてはいけないと思いつつ、今回はそこまで立ち入れていません。結局問いたいのは、「平面」ってなんだろう、ということです。僕はむしろ、平面とは視覚的にフラットに構成されるようななにか、すなわち、幾何学的な、厚みを持たない面が平面の認知なのかと思っていましたが、リーグルによるとそれは触覚性の特徴だと言う。僕としてはなんとなく気持ち悪い。リーグルはどう考えているのでしょうか。

柳澤
そもそもルネサンス期以降の西洋絵画のタブローは3次元のものを2次元のなかに押し込めつつ、ぺったりとした平面ではないように見せるイリュージョンですよね。カメラで直接的に知覚経験を記録できる映像とは情報処理のプロセスがかなり異なるのは間違いないですが、いずれも平面であることを隠蔽しようとしている。リーグルに正確に依拠しては答えられないのですが、ここで平面性という概念によって念頭に置かれているのは、媒質が全体に満ちているような、フラットなエジプトの絵画のようなものだと思います。

大橋
これはすごくデリケートな問題なので、もう少し後に考えてもいいと思っています。ひょっとしたらリーグルでも「平面」という現象はあまりうまく処理できていないのではないかと思ったので、それについて少し伺ってみたかったわけです。

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